びんご 古城散策・田口義之

◆大門城山と岡氏
                                    (福山市大門町) 〈206〉

大門城山(枝広城)
 福山市の東南に位置する大門町は、今でこそ日本鋼管の誘致によって海は埋め立てられ、内陸の町になってしまったが、かつては波静かな入海(大門湾)に臨んだ海辺の村であった。
 「大門」の地名は、この入海に浮かんだ二つの小島に由来するという。現在の大門駅辺りから南を望むと、右手に春日大明神の鎮座する亀山、左手に厳島神社の建つ鶴山が湾口の左右に、あたかも門柱のように並び立ち、これが地名の由来になった。
 歴史は古い。現在の国道が引野に越える低い峠の手前には、縄文時代の貝塚遺跡として有名な「大門貝塚」が所在(現在消滅、記念碑が建っている)、北に屏風のように切り立つ山塊の麓には古代の製塩土器である「師楽式土器」の破片が散布し、古くから開けた地であったことを示している。
 中世、一帯は坪生庄から分離した「五箇庄」に含まれていた。荘園領主は判然としないが、現在の大門町大門、野々浜、津之下から引野町がその範囲と考えられ、手城は「五箇の手島」と呼ばれた小島があるのみで、広漠たる海原が広がっていた。
 戦国時代になると、この地は神辺城の後背地として枢要な位置を占めることとなった。神辺城主山名理興は、天文一二年(一五四三)春、大内氏を裏切って尼子方となり、以後、同一八年(一五四九)九月、理興が城を捨てて出雲に逃走するまで、一帯は戦乱の巷となった。
城山から旧大門湾を望む
 良港に恵まれたこの地は、理興と同じく尼子方に組した備中細川氏、遠く尼子氏に好を通じた京都の細川氏綱と神辺城を結ぶ中継地として重視され、真っ先に大内方の攻撃を受けることとなった。
 大内氏の先鋒となって、この地に上陸したのは、竹原小早川氏であった。
 天文一三年(一五四四)八月、大内氏は、五箇庄が「無主」であるという理由で、これを竹原小早川家に預け、この地に「一城」を築き、兵を入れるように命じた(1)。無論、同庄が無主の地であるはずはなく、敵対した山名理興の所領を味方の部将に与え、切取り次第自己の所領とすることを認めたもので、竹原小早川氏がこの地を実際に支配するためには、実力で理興の兵を追い払い、占拠する必要があった。
 竹原小早川氏の軍勢が実際に大門湾に上陸し、この地を占拠したのは、天文十五年(一五四六)に入ってからのことと思われる。当初安芸に侵入し、毛利小早川の軍勢と干戈を交えた山名理興も、同年に入ると守勢にまわり、領内に敵の侵入を許すこととなった。
 沿岸部から神辺城を目指したのは、毛利家から養子隆景を向かい入れたばかりの竹原小早川氏であった。同氏は鞆に本陣を置いて、先ず手島(現在の手城町古城山)を攻略して、ここに番兵を入れ、南方から神辺城を目指した。大門の城山が合戦の舞台となったのは、丁度この頃のことであった。
注(1)「小早川家文書之二」 小早川家証文四三三号

備陽史探訪の会
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