びんご 古城散策・田口義之

◆朝山二子城と楢崎氏(10)
                                    (府中市久佐町) 〈205〉

上原元将の居城、沼城跡 (世羅郡世羅町)
 天正末年(一五九一頃)の楢崎氏の給地が『毛利家八箇国時代分限帳(以下分限帳)』と『八箇国御配置絵図(以下絵図)』で異なる問題は、楢崎氏の元兼から元好への家督交代という家内部の事情と共に、その史料としての取り扱いについて考えさせられることが多い。
 一般に、「分限帳」は毛利氏が天正末年に実施した「惣国検地」の結果を記した「絵図」を江戸時代になって家臣ごとに給地をまとめて冊子にしたものと言われる。よって、惣国検地後の国人の所領については「絵図」の方を基本にしなければならないわけだが、国別に描かれた「絵図」は扱いが難しく、あまり利用されていないのが現状だ。
 しかし、今回のように、『分限帳』と『絵図』で大きな違いがある場合、やはり、原史料である『絵図』に基づいて考察を進めるのが原則であろう。
 今、試みに楢崎氏の場合、『絵図』の備後国分のみを書き上げてみると、次のようになる。
一、楢崎太郎兵衛(元景)の知行分は芦田郡の内、三百一石余のみである。
二、惣領家を継いだ元好の知行分は三谷郡の百石と世羅郡の六九五石余(朱字で七百四石余に訂正)、合わせて八百石である。
三、一族の勘二郎が三谷郡に一四石余の給地を持っている。
 そして、世羅郡の給地は没収され、替わりに周防国に九百石余の給地を与えられたわけだが、この周防の「楢崎領」を『分限帳』作者山田五左衛門が「楢崎彦左衛門信景」と即断し、「一、九百十八石六斗八合 楢崎彦左衛門 周防吉敷郡」と記入してしまったのではあるまいか。『分限帳』は毛利氏家臣団の給地を調べる場合大変便利なものだが、史料として用いる場合は、『絵図』との対比の上でしなければ過ちを犯す恐れがある。
 楢崎氏の大きな所領が世羅郡にあり、それが後に周防吉敷郡に移されたのは、当時の毛利氏の事情があった。
 楢崎氏が、世羅郡に所領を持ったのは、楢崎氏が毛利家に反逆した上原元将の居城沼城を攻め落とし、元将室毛利氏を奪回した功績によるものと考えていい。また、その所領高が千貫に近い大きなものであったのは、天正十年(一五八二)から十二年(一五八四)にかけて行われた豊臣氏との「国別け」で楢崎元兼が美作高田城を退去し、元兼が持っていた美作・備中の所領が宇喜多方に引き渡され、その代所という意味があった。高田城は後の勝山城(岡山県真庭市)のことで、美作に於ける毛利方の中心的な城郭であった。楢崎元兼は同地域に大きな所領を持っていたと見ていい。
 その楢崎氏が更に周防に移されたのは、替わりに譜代の家臣を入れ、備後支配を固めるという意味があった。毛利氏は備後の要である世羅郡を親類となった上原氏を通じて行なうつもりであった。ところが、上原氏の反逆によってその目論見は潰れ、替わりに元就末子の秀包を上原氏跡に入れることで、備後中部を固めようとした。結果、世羅郡最大の国人となった楢崎氏は他国に移され、国衆としての地位を失ったのである。

備陽史探訪の会
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop