びんご 古城散策・田口義之

◆朝山二子城と楢崎氏(9)
                                    (府中市久佐町) 〈204〉

上原元将の居城、沼城跡 (世羅郡世羅町)
 過日、改めて朝山二子城のある府中市久佐町を訪ねてみた。25年ほど前、備陽史探訪の会で城跡を含めた久佐の総合調査を行い大きな成果を収めたが、そのとき以来であった。
 5月にしては暑い、初夏のような日であったが、福塩線河佐駅前に立つと、右手に朝山が高く聳え、若葉が目に痛いほどであった。
 まず、城山の西の麓に建つ禅宗安全寺を訪ねた。駐車場が整備され、庫裏が新築されるなど、面目を一新した境内の西に、楢崎氏の墓石が以前来た時と同じように並んでいた。気のせいか、やや小ぶりになったような錯覚を覚えた。何れも花崗岩製の宝篋印塔で、戦国期の特徴を持っている。伝承通り、楢崎氏の墓石と見ていいだろう。西南の隅に「楢崎氏累代」と刻んだ真新しい五輪塔が目を引く。これらの宝篋印塔は現在でも近在の子孫の方によって供養されている証拠だ。
「朝山城主楢崎氏旧墓地」
 次に、本来の菩提寺であったという「玉禅寺跡」を目指した。確か、盆地の奥まった高地にあったはずだが、と人に尋ねても誰も知らない。城山と安全寺の墓石については知られているようだが、こちらはほとんどの人が無関心のようだった。1時間ばかり歩き回って、やっと場所を突き止め、恐る恐る山の中に入ってみた。「三宮というお堂の傍だから…」と聞いて、小道を登って行くと、五〇メートル足らずでお堂の立つ広さ二百坪ばかりの平坦地に出た。どうやらここが玉禅寺の跡のようだ。堂の傍らを山に向かって歩くと、右手に石垣の一角があり、五輪塔、宝篋印塔が合わせて三十ばかり整然と並んでいた。中央に「朝山城主楢崎氏旧墓地」と刻んだ石塔が立っている。宝篋印塔は小ぶりな戦国期特有のもので、安全寺の墓石はここから移したものとの伝承は間違いなさそうである。寺跡の一角には以前確認した庭園(池)の跡も残っている。さらに、南には二段の平地があり、典型的な戦国期の禅宗寺院の形態を残している。発掘すれば安芸吉川氏の万徳院跡のような遺跡が現れるはずである。
 戦国百年を朝山二子城に拠って生き抜いた楢崎氏も備後を去るときが来た。慶長五年(一六〇〇)九月、毛利氏が関が原の合戦で敗れ、防長二州に押し込められると、楢崎氏も毛利氏に従って長州萩に移り、自然、朝山二子城も廃城となった。
 一族の中には備後に残ったものも多く、後年豊臣氏の激に応じて大坂に籠城した者もいた。中でも十兵衛尉景忠の逸話は有名である。景忠の武勇は有名で、水野勝成が備後十万石の大名として入封した時、領内に触れを出し、景忠の消息を尋ねた。景忠はこの時府中に隠棲していたが、その地の庄屋は、老齢の景忠が大坂籠城の罪で処断されることを痛ましく思い、「景忠は既に死去しました」と報告した。 
 実は、勝成は「大坂の陣」で景忠の勇猛な「武者ぶり」を目の当たりにしており、処断するどころか高禄で召抱えるつもりであったという。

備陽史探訪の会
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