びんご 古城散策・田口義之

◆朝山二子城と楢崎氏(8)
                                    (府中市久佐町) 〈203〉

朝山城 井戸跡
 本領芦田郡草(久佐)村に於ける楢崎氏の存在形態については、ほとんど手がかりになるものがない。現地に残っているものは朝山二子城跡と、楢崎氏のものと伝わる一群の古墓のみである。
 現在、楢崎氏の墓石は城下安全寺に移されているが、これは本来、久佐盆地の北端の小高い場所にあった玉禅寺と称した楢崎氏の菩提寺にあったものである。玉禅寺は元竹馬寺(ちくばんじ)と称し、奈良時代役の行者の開基と伝える古刹で、楢崎氏がこの地の領主となった際、仏通寺派の臨済宗の寺院に改宗して、菩提寺とした。やや小高い場所にある寺跡に行って見ると、庭園の跡や二基の宝篋印塔、三十数基の五輪石塔が苔むして残っている。
 また、楢崎氏が再建したと伝える久佐の八幡社は、朝山二子城から芦田川を隔てた南側の小高い丘の上に建っている。そこは比高五〇メートルほどの急峻な尾根上にあり、朝山二子城の対塁とするには格好の場所で、一朝有事にはここも城の一部として使われたはずだ。
 楢崎氏はこの城に拠って領主として君臨した。『浄土寺文書』四十九号「備後国芦田郡草(久佐)村浄土寺分収納目録」によると、同地には年貢を負担した百姓の中に、「長野兵衛」「護摩堂孫太郎」「井手左京亮」「番木三郎兵衛」「馬場覚善」三谷左近」など、名字を持った有力百姓(侍分という)の名が散見する。彼等は草村の領主権が浄土寺から楢崎氏に移った時、同氏の家臣団(被官と呼ばれた)に繰り込まれたはずである。『毛利家文書』三七四号「永禄十二年(一五六九)卯月一七日牛尾要害切崩候時討捕首注文」の「楢崎手」として登場する「西山藤次郎」などもそうした在地の「侍分」で楢崎氏の被官となったものであろう。
朝山城跡に残る礎石
 楢崎氏の本領は、朝山二子城の存在する久佐盆地とその東西の芦田川沿いの小さな河谷地帯に限られていたようである。『毛利家八箇国時代分限帳』に「参百壱石九斗六升七合 楢崎太郎兵衛」とあるのがそれだ。これは貫高を石高に直した「分米表記」だから、江戸時代の石高にすると約七百石の知行取りとなろうか…。
 ここで検討を要するのは、草村を知行地としたのは、惣領の元兼ではなく三男景好の次男太郎兵衛元景であったことだ。
 楢崎氏の知行地に関しては、『毛利家八箇国時代分限帳』及び、その元となった『八箇国後配置絵図』(以下絵図)を分析すると面白いことが分る。絵図の芦田郡のところに楢崎太郎兵衛があるのは分限帳と同じだが、「弐百六拾九石1斗八升三合」を抹消して「参百壱石九斗六升七合」と朱書で訂正してある。また、その兄で惣領家の家督となった吉蔵元好は、絵図の世羅郡の所に「六九五石八斗 楢崎吉蔵」と書かれた後に抹消され、その給地は「七百四石」に訂正され井原大学に与えられている。分限帳に「九百十八石楢崎彦左衛門(信景) 周防吉敷郡」とあるのは、給地替によって楢崎氏が備後世羅郡から周防吉敷郡に移されたことを意味している。さらに絵図では楢崎氏の惣領として世羅郡に大きな給地を持っていた元好(吉蔵)が分限帳では別に二百五十石余の給地を備後に持ち、惣領が元好の祖父信景となっている。このあたり、楢崎氏の元兼から元好への家督交代にはやや混乱が見られる。

備陽史探訪の会
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