びんご 古城散策・田口義之

◆朝山二子城と楢崎氏(7)
                                    (府中市久佐町) 〈202〉

本丸跡に建つ石碑
 毛利氏の武将としての楢崎氏歴代の活躍は目覚しいものであった。
 豊景の子信景の名がはじめて登場するのは、弘治三年(一五五七)の毛利氏が大内義長を長府に追い詰めたときのことであった。この時、元就は義長退治に腹心の福原貞俊を遣わしたが、元就は信景と熊谷信直にその介添えを命じ、両人とも見事に使命を果たした。
 翌永禄元年(一五五八)五月、毛利氏の石見攻めに際しては、信景は父豊景と共に小早川隆景の手に属し、出雲から出陣してきた尼子晴久の軍勢を撃退し、毛利氏の石見攻略に貢献した。
 永禄五年(一五六二)から始まった毛利氏の尼子攻めに際しても楢崎氏は獅子奮迅の活躍を見せた。
 同六年(一五六三)八月、毛利勢の攻勢に対して、晴久亡き後尼子氏を継いだ義久は富田月山城を出撃、出雲馬潟原で毛利勢と激突、激しい戦いとなった。中でも、尼子の部将河添久盛・馬田杢允三百騎が小早川隆景の本陣に切り込み、本陣の旗本が斬りたてられ既に危うく見えた時、豊景と同じく備後の国衆長元信の手勢三百が尼子勢の横腹を突き、これを突き崩した。この時は豊景自ら槍を振るい、敵将馬田の首を挙げ、元就の感状を頂戴した。
 永禄九年(一五六六)、尼子が毛利の軍門に下り、戦線が九州に移動してからは、豊景は備後に在国し、信景が楢崎氏を代表して出陣した。永禄十二年(一五六九)五月、筑前立花城を巡って大友勢と戦った際には、逆襲に転じた大友勢に対し、信景は毛利氏から鉄砲隊の配属を受け、かろうじてこれを撃退した。
朝山城址の石垣
 同年十月、在国した豊景が一族子弟を率いて、藤井氏の一揆を鎮圧し、藤井皓玄を討ち、その首を元就の本陣に送り届けたことは以前に述べた。
 天正年間に入ると、豊景・信景は老い、信景の子元兼が楢崎氏を代表して活躍する。
 元兼の主な活躍舞台は、楢崎氏の古巣備中北部から美作にかけてで、美作月田山城に在城して、毛利氏最前線の部将として西進する織田勢の矢表に立って奮戦した。天正三年(一五七五)、元兼は毛利氏から因幡の関所の守備を命ぜられ、織田信長の密使として草刈氏の下に派遣された大谷慶松を召し取り、持っていた草刈氏宛ての信長の朱印状を奪取して、草刈氏の現形(裏切り)を未然に防いだ。
 元兼は調略にも長けた武将であった。天正六年(一五七八)備前宇喜多直家が毛利氏を裏切り織田氏に味方した際には、元兼は計略を用いて宇喜多氏の重臣明石飛騨守・同三郎左衛門父子と、主君直家の間を離反させ、明石氏を毛利方に引き入れると言う手柄を立てた。
 更に、天正十年(一五八二)六月、備後の上原元将が備中日幡城で毛利氏を裏切り、羽柴秀吉に内通した際には、毛利氏と秀吉の和議が結ばれるや直ちに備後に取って返し、上原氏の居城沼城(世羅郡世羅町)を攻め落とし、元将の内室(元就の娘であった)を取り返し、これを安芸吉田に送り届けた(以上「萩藩閥閲録」五三楢崎与兵衛)。

備陽史探訪の会
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