びんご 古城散策・田口義之

◆朝山二子城と楢崎氏(6)
                                    (府中市久佐町) 〈201〉

 『萩藩閥閲録』巻五三楢崎与兵衛書出に収められた大組楢崎与兵衛家の家伝文書は二十二通。その内十二通は楢崎豊景宛で、後は信景宛が五通、元兼宛が二通、豊景・信景連名宛のものが二通、その他一通となっている。 
 この二十二通のうち十四通が楢崎豊景宛てというのは、偶然としてもやや不自然である。その理由は、書出の最後に収められた「楢崎筑後守御断書」によって判明する。
 筑後守の実名は景好といい、三河守豊景の三男であったが、その子元好が実子の無かった元兼の遺跡を継いだため、楢崎氏の惣領家という立場となった。 
 しかし、景好に対する毛利家の待遇は薄情なものであった。「御扶持方」として、七人扶持と歳末に「切米五石」が支給されたのみで、これでは「いかにも手前不如意」なので、せめて父三河守豊景に遣わされた隠居分を自分に下されたい。もし頂戴できるものなら「生々世々忝なくべく候」と、父豊景以来の楢崎氏の毛利家に対する忠節を書上げ、待遇の改善を嘆願したものである。すなわち、江戸時代の楢崎家に伝来した家伝文書は、豊景の三男景好の家に伝わったものであった。
 景好の「御断書(正式には「私申上条々事」)は、戦国末期の楢崎氏と備後の情勢を語って興味の尽きないものである。
 景好は、この文書の中で先ず自分の毛利家に対する忠節を述べている。
朝山城跡の井戸跡
 「私は、大坂引き分け(大坂夏冬の陣)の時に山口高峯在番を命ぜられ、既に隠居しており支度が調わないとお断り申上げましたが、たってのお望みということでお請し、在番いたしました」
 そして、父豊景が如何に毛利家に忠節を尽くしたかを述べ、せめて父豊景に与えられた隠居分を与えられんことを嘆願する。
「私の親三河守(豊景)は元就様、隆元様、殿様(輝元)に対して随分の忠節を尽くし、感状も十七通拝領しております。」
「中でも備後神辺の城、備中の藤井一類の者共が阿波の三好家と示し合わせて忍び取り、備後で毛利家に対する一揆が起りかけた時(永禄十二年)には、有地・木梨の両城に一族の者を入れて鎮め、自身は神辺の城に攻め寄せ、死人手負いの者を八十余人も出しながらも攻め落とし、無事取り返しました。この時には殿様の『御家を再興仕りたる』との有難い文言の入った感状を頂戴しました」
「また、先年(天正十年)太閤様が備中高松清水の城に取り懸かられ、上原の逆心によって毛利家が敗北寸前に追い詰められた時には、父豊景は先ず自らの人質として孫五郎、右衛門兄弟を隆景様の陣所に差し出し、併せて木梨・古志・有地・久代など寝返りの気配のあった備後の国人から人質を取り固め「無二の馳走」をしました。このことは吉川広家様が隆景様の陣所に夜が明けるまで御詰めなされておられたので、よくご存知のはずです」
 この、永禄十二年(一五六九)の神辺城奪回の功と、天正十年(一五八二)の備中高松城の合戦に於ける楢崎豊景の働きは、備後国衆としては抜群のもので、その子景好が毛利家に対して待遇の改善を要求する、充分な根拠となりうるものであった。

備陽史探訪の会
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop