びんご 古城散策・田口義之

◆朝山二子城と楢崎氏(5)
                                    (府中市久佐町) 〈200〉

朝山二子城跡の石垣
 「私は二十歳の年に兄興元が亡くなり天涯孤独の身の上となった。以来、当年(一五五七)の今に至るまで四〇余年過ぎ去った。その間戦国の荒波は容赦なく押寄せ、当家や他家の有様は、滅ぶものあり全く変わってしまった。私一人がこの乱世を生き延びたのは不思議なくらいである」これは、多治比三百貫の小城主から身を起こし、備後・安芸・周防・長門四ヶ国の戦国大名に成り上がった毛利元就が、隆元・元春・隆景の三人の子どもに与えた、有名な「三子教訓状」の一節である。
 誠に、乱世の荒波は容赦なく備後地方に押寄せ、国人衆の多くを没落させ、また、生き延びた家でも、家伝の文書・系図など多くの貴重な記録を散逸させた。このため、各地に残る山城跡の由来や、国人衆の歴史を記述するのは困難を極めることとなった。如何に立派な山城跡を残しても、その興亡の有様を知ることが難しい場合も多いのである。
 ただ、城主の歴代の名前さえ伝わっていれば、大まかな歴史を探ることは可能である。
 中世、村々の名主クラス以上の小領主なら、名字と共に「実名」を持つのが一般的であった。そして、その名は、武家社会に於いては、烏帽子親の一字を貰うのが通例であった。例えば、安芸の毛利家の場合、室町・戦国期の当主は、その時々の権力者山名是豊、大内政弘、同義興から「一字」を拝領して、毛利豊元、同弘元、同興元と名乗った。元就のみ毛利家の「通字」である「元」を名乗りの上に戴いているのは、彼が本来毛利家を継ぐ立場になく、次男として家来並に兄興元に「奉公」する立場にあったことを示している。
 朝山二子城主であった楢崎氏の場合も、この「実名から家の歴史を探る」という方法は有効である。楢崎氏の場合、家伝文書は16世紀半ば以降に限られ、それ以前の歴史はかろうじて残された歴代の実名と、断片的な記録しかない。
 『萩藩閥閲録』巻五三楢崎与兵衛の系譜では、備後芦田郡地頭職を拝領したという豊武から豊貞、満景、宗豊、豊信、宗真、通景を経て戦国期の楢崎三河守豊景に至ったとあるが、備後守護山名氏の「通字」である「豊」字が南北朝期の人物や、実名の下の字に用いた人物(あり得ないことである)が登場するなど不審な点が多い。やはり、史料として実名を用いるには実在を確認できる豊景からとした方が無難である。
 戦国期の楢崎氏の当主として確認されるのは、豊景、信景、元兼の三人で、それぞれ実名の上に戴く文字が違う。これは、楢崎氏がその時々で違う権力者に庇護を求めたことを示している。豊景の「豊」は言うまでもなく備後守護山名氏から拝領したものである。信景は享禄・天文年間(16世紀前半)の元服と考えられるから、当時の実力者宮実信から「信」の字を貰ったものだろう。そして、その子元兼は、天文十九年(一五五〇)生まれだから「元」の字は毛利氏から拝領したものである。つまり、楢崎氏は、「実名」から当初は備後守護山名氏に、ついで備後の実力者宮実信に属して家を守り、最終的に毛利氏の傘下に入って、戦国の荒波を乗り切ったのである。

備陽史探訪の会
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