びんご 古城散策・田口義之

◆朝山二子城と楢崎氏(4)
                                    (府中市久佐町) 〈199〉

 先祖が鎌倉殿、或いは尊氏公から地頭職を拝領し、その地に土着した、という由緒は当時の国人にとって大変名誉なことであった。
 如何に乱世とは言え、国人土豪にはそれなりの秩序があり、守護や大名の殿中では、その由緒や格式によって、座る座敷、場所、装束も違っていた。
 乱世を生きた国人土豪の1人であった渡辺越中守兼の「覚書」を見ると、守護に対しては「殿様」、地頭・荘官を先祖に持つ国人に対しては「殿」の敬称を用い、同輩の土豪に対しては「呼び捨て」であった。
 明応元年(1492)十二月、渡辺兼は主君山名俊豊の幕府出仕の「輿添え」を命ぜられ、感激の面持ちで晴れの儀に望んだが、その時の装束は、主君俊豊は「裏打ち」の直垂に「烏帽子」、俊豊の輿に騎馬で従った山内直通と田原信濃守は「烏帽子上下」、徒歩立ちの供を仰せ付かった兼など4人の「こしそえ」は、「あわせ小袖思い思いのそめ小袖肩衣」という出で立ちだったという。
 衣装からも、目に見える形で「殿様(守護)」は「裏打ち直垂」に烏帽子、「殿(有力国人)」は大紋に烏帽子、渡辺氏などの土豪(小領主)は小袖に肩衣という身分秩序が厳然と存在したのである。それは守護などの「殿中」でも同じで、山内氏や宮氏などの有力国人は書院などで守護の眼前に伺候したのに対して、兼などの土豪地侍は「小座敷」に伺候し、守護から直接声を懸けられることはめったになく、もし何かのきっかけで守護から声をかけられれば、渡辺兼のように「感涙を流した(に咽んだ)」のであった(渡辺先祖覚書)。
楢崎氏の墓石 (府中市久佐町)
 楢崎氏が、先祖が足利尊氏より、芦田郡(或いは久佐村)の地頭職を拝領し、備後に土着したと主張するのは、有地、杉原など周囲の国人と対等の付き合いをするための、方便だったと考えるのが妥当だろう。
 楢崎氏の存在が一六世紀の半ば以前に確認できないという在地性の薄さが、同氏をより一層毛利氏に密着させることとなった。周囲の有力国人北に接する上原氏、南に接する有地氏、木梨氏が天正年間(一五七三~九二)に至っても国人として半ば独立した姿勢を取り、結局毛利氏の弾圧を受けたのに対し、楢崎氏は終始一貫して毛利氏に忠誠を誓い、毛利氏の後援によって備後の国衆として勢力を伸ばしていった。
 楢崎氏が毛利氏に忠実な国人であったことは、永禄十二年(一五六九)八月、神辺牢人藤井皓玄一派が尼子氏や大友氏に応じて神辺城を奪い取った際の楢崎氏の対応に良く現れている。
 この時、朝山二子城にあって九州出陣中の嫡男信景の留守を守っていた隠居の豊景は末子小輔五郎などを率いて直ちに出陣、神辺城を奪回した上、藤井氏を討ち、更に動揺する国人衆を鎮めるため藤井氏に与同する動きのあった木梨・有地の両城に兵を入れ、これを鎮圧した(「萩藩閥閲録」五三楢崎与兵衛書出など)。毛利氏もこの豊景の働きを激賞し、「御家の再興を仕りたる」との文言の入った感状を与え、これに報いたという(同上)。

備陽史探訪の会
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