びんご 古城散策・田口義之

◆朝山二子城と楢崎氏(3)
                                    (府中市久佐町) 〈198〉

朝山二子城跡に建つ記念碑 
 備後楢崎氏に関する最も基本的な史料は、『萩藩閥閲録』五三に収める萩藩大組士楢崎与兵衛の書出文書と系譜である。
 それによると、楢崎氏は湯原氏の一族で、初め大和国宇多(宇陀)郡を領して「宇多」氏を称し、足利尊氏から備後国芦田郡地頭職を拝領し、久佐村楢崎山に居住して「楢崎氏」を名乗ったという。
 だが、本稿で城の名前を「朝山二子城」としたように、城の築かれた山は土地台帳上も「朝山」であって、「楢崎山」の名は楢崎氏が居城したことによって、後にそう呼ばれたに過ぎない。
 『福山志料』によると、楢崎氏の菩提寺安全寺には、享禄三年(一五三〇)楢崎三河守、天文一七年(一五四八)同加賀守の位牌があり、且つ朝山二子城は「楢崎豊景朝山ノ城ヲ築ク」という伝承があったと記している(同書巻ノ二十一芦田郡久佐村の条)。
 家伝の文書からも楢崎氏の活動が知れるのは永禄四年(一五六一)のことで(1)、大体楢崎豊景の代、天文から弘治(一五三一~一五五五)にかけてがその土着の年代と考えてよかろう。
 「閥閲録」の楢崎氏系譜に、楢崎氏のそもそもの本貫地のはずの近江国犬上郡楢崎村の名が登場しないのは不審である。実際、楢崎氏が近江国の在地武士として存在したことは、楢崎太郎左衛門尉賢道が六角氏の重臣として「六角式目」に加判していることから間違いない事実である。多賀町には「楢崎城跡」も残っている。
 さらに、隣の備中国には南北朝時代以来、国人楢崎氏の活躍が知られ、新見市の鳶巣城に拠って東寺領の新見庄に侵略を繰り返していたことが「東寺百合文書」に残っている。
 結論的に言えば、この備中楢崎氏が備後楢崎氏の直接のルーツと考えられる。
 備中国の国人が備後に所領を持ったり、その一族が備後に土着したりする例は、楢崎氏に限らず多くの事例が知られている。例えば、楢崎氏と同じく備中北部の国人新見氏は、室町時代の半ばには世羅郡に所領を持っており、戦国期にはその一族が甲奴郡に土着し、楢崎氏と同様、毛利氏の傘下に入って、弘治三年(一五五七)の盟約に署名している(2)。その他、神石郡には赤木、平川氏などの備中国人が所領を持っており、一族で土着したものも少なくない(3)。
 『備中府志』の鳶ノ巣城の項によると、城主楢崎彦左衛門尉豊景は、永禄四年(一五六一)毛利氏の命で「備後国久佐」に「所替」となったとある。永禄四年はいささか遅すぎるような気がするが、備後楢崎氏が備中楢崎氏の一族であったことは認めてよかろう。
 しかし、それが毛利氏の命で行われたとは俄かに信じることは出来ない。それよりも、「大和国宇陀郡云々」の記載から、久代宮氏との関係が推測できる。久代宮氏もまた先祖が大和国宇陀郡の領主であったと主張する(4)。さらに、久代宮氏は戦国期には備中西北部にも広く勢力を延ばしている。甲奴郡の伊達氏、神石郡の木津和氏なども久代宮氏の被官であったと伝えており、楢崎氏が久代宮氏との関係でこの地に移ってきたこともありえるのである。
(1)『萩藩閥閲録』所収永禄四年二月二八日付毛利隆元判物
(2)「毛利家文書」二二五号
(3)毛利家八箇国時代分限帳
(4)一般本「久代記」

備陽史探訪の会
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