びんご 古城散策・田口義之

◆朝山二子城と楢崎氏(2)
                                    (府中市久佐町) 〈197〉

朝山二子城跡を府中市久佐町より遠望 
 朝山二子城跡の存在する府中市の久佐町は、芦田川の中流域に豁然と開けた別天地である。その上流は、八田原、井庄原という山間の渓谷を経て大田庄の桑原方(現世羅町東部)に至る。八田原は現在八田原ダムの湖底に沈んでしまったが、平家の落人伝説が残る山間幽邃の地であった。下流もまた府中市の父石で御調川と合流するまで、渓谷の連続で人家は、川沿いよりも少し小高い山腹に点在している。現在の広々とした県道が無かった時代、ここは確かに別天地であったろう。
 しかし、その歴史は古い。盆地の北の奥まった高地には全長七メートルの横穴式石室を持つ山根古墳が存在し、既に7世紀にはここに有力農民が居を構えたことが分る。
 歴史時代に入っても史料は比較的豊富だ。南北朝時代、「草村公文職」は備後国利生塔「塔婆料所」に指定され、利生塔の建てられた尾道浄土寺が支配した。浄土寺の支配は文明一五年(一四八三)まで続き、同年の浄土寺の得分は「春成」二貫二七文、米七石七斗余であった(浄土寺文書四九号)。
 この地の領主で朝山二子城を築いた楢崎氏は謎の多い国人領主である。同氏に伝わる伝承では、楢崎氏は近江国犬上郡楢崎村(現滋賀県犬上郡多賀町楢崎)を名字の地とした武士団で、備後には正慶二年(一三三二)、足利尊氏から備後国芦田郡久佐村の地頭職を拝領。この地に朝山二子城を築き備後の豪族となったという。
 ところが、この伝承には矛盾する点が多い。まず、楢崎氏が久佐村地頭職を拝領したという「正慶」の年号がおかしい。正慶は、後醍醐天皇を隠岐の島に流し、持明院統の光厳天皇を立てた鎌倉幕府が後醍醐天皇の「元弘」を廃して立てた元号である。一三三三年(元弘三年=正慶二年)五月、再び天皇の位についた後醍醐天皇は、光厳天皇の在位自体も認めず。正慶の年号も無かったこととした。後醍醐天皇から鎌倉幕府打倒の第一の功臣として昇殿を許された足利尊氏が、自らの御教書にこの「正慶」年号を使うことがあり得るかどうか…。私はそんなことは無かったと考える。
 とすると、この足利尊氏の御教書は「偽物」と断ぜざる得ないが、それでは何故楢崎氏がこのような文書を捏造してまで、その由緒を古くまで遡らせようとしたのかが問題となる。
 楢崎氏が戦国時代の中期(一五五〇年代)には、既に朝山二子城に拠り、備後の国人衆として活動していたのは間違いない事実である。弘治三年(一五五七)十二月、十五名の備後国衆が毛利元就、同隆元と共に軍規の厳正などを誓った起請文(毛利家文書二二五号)には、楢崎彦左衛門尉信景が杉原・有地・和智・三吉氏など歴々たる備後国人と肩を並べて署名しており、この頃には備後国人として毛利氏の傘下に入っていたことが確認される。

備陽史探訪の会
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