びんご 古城散策・田口義之

◆八尾山城と山名氏(11)
                                    (府中市出口町) 〈195〉

 山名理興が神辺に移った後、杉原豊後守が八尾山城に入ったとすると、理興が神辺城主として備後南部を支配した時代、八尾山城は神辺西方の重要な支城としての役割を果たしていたはずだ。大内氏が城主杉原氏に対して内応を誘う調略の手を伸ばしていたのは至極当然だろう。
 杉原豊後守が大内方に寝返ったことによって、神辺西方の重用拠点は失われ、神辺城は西方から直接脅威を受けることになった。天文十六年(一五四七)四月、毛利氏は神辺平野に進出、理興に組した宮氏の拠る勝渡山城を攻撃。翌天文一七年(一五四八)五月、更に進んで神辺城北方一里余の今大山城を攻め、城主宮氏を敗走させた。こうして、理興に味方した諸城を下した大内・毛利の連合軍は同年六月、遂に神辺城の総攻撃を決行するのである。その落城は翌天文一八年(一五四九)九月のこととは言え、毛利氏が神辺平野に入る場合、必ず通らなければならなかった八尾山城下を開放した杉原豊後守の内応は、それだけ大きな意味を持っていた。豊後守が後に毛利氏より嫁を迎え、神辺城主になったのは、その手柄によるものであったろう。
 杉原豊後守が神辺に移った後、八尾山城の存在は急速に意味を失った。神辺城に毛利氏の婿となった杉原豊後守が入ったことにより、毛利氏東方の拠点は神辺城となり、八尾山城は単に郡山城と神辺城を繋ぐ「繫ぎの城」としての価値しか持たなくなった。理興以後城主の名が伝わっていないのはそのためだ。おそらく普段は数人の番兵がいたのみで、それも合戦が遠退くと置かれなくなり、自然と廃城となったものであろう。
南から望む八尾山城跡
 八尾山城址を目指すにはJR福塩線府中駅を出発点にするのがいいだろう。最初に庄の池の傍らに広がる「府中公園」を目指す。駅前から北にまっすぐ伸びる大通りを進み、三つ目の信号(府中学園東)で左折、西に進んでこれも三つ目の信号(府中公園前)で右折、三百メートル行くと左に公園の入口が見えてくる。府中公園からは、徒歩だと庄の池北岸から北に伸びる府中八幡宮の参道へ入り、八幡宮へ入る手前で右の登山道に入る(案内板があるはずだ)。車だと、公園の西端から八幡さんに至る道に入り、八幡さんの駐車場に車を止め、先ず社殿に参拝して城跡を目指そう。
 八尾山城址には、その南の曲輪に妙見社が勧請され、登山道も信者用にきれいに整備されて登りやすい。
 「八尾」の名前の通り、城は山頂から八方に伸びる稜線を利用して築かれている。山頂の本丸は南北六〇メートル、幅二〇メートルの平坦地で、ここから東西南北に伸びた尾根上に多数の曲輪が築かれている。特に東方と西南に伸びた尾根上にはそれぞれ6から7の曲輪跡が残り、一部には「削り残し」の土塁も見られる。北方の亀ヶ岳山塊との間は深い堀切が築かれ、さらにその北の山頂には「旗立山城」が築かれ、北からの侵入に備えている。立地といい、規模といい、正に府中市を代表する山城跡である。

備陽史探訪の会
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