びんご 古城散策・田口義之

◆八尾山城と山名氏(10)
                                    (府中市出口町) 〈194〉

 理興のことを続けよう。
 山名理興が通説でいう山手杉原氏の出身でなく、守護家山名氏の一族と論証した木下氏の新説は、更に理興の末路に関する新たな見解を提唱した。天文十五年(一五四六)末と推定される大内氏奉行人奉書(1)が、それまで理興が杉原氏の出身であることの証拠とされてきたのを、理興とは別人の山手杉原氏の当主であると主張した(2)。
 この文書は『福山市史』上巻では、理興(杉原豊後守)が一時大内氏に内応することを承認した文書とされてきたが、そうではなく、理興の有力武将として神辺に籠城していた杉原豊後守が理興を裏切って大内氏に味方したことを示す文書とした。
 木下氏の見解は、ここから一歩進んで、この杉原豊後守こそ毛利元就の姪が嫁した「杉原殿」で、後に神辺城主となった杉原盛重は、この豊後守の跡を継ぎ、元就姪の婿となって神辺城に入ったとした。従うべき見解であろう(3)。
 考えてみると、『福山市史』上巻が理興山手杉原氏出身説の根拠とした『閥閲録』六十八所収杉原与三右衛門家の系譜には、盛重の先代として「杉原豊後守理興」はあるが、この人物が神辺城主となったとは何処にも記していない。杉原豊後守理興が山手銀山城から神辺城へ移ったことは『西備名区』が「一本古城記」を引用して述べているのみである。
山手町の銀山城跡に残る石垣
 『西備名区』が著された頃は、既に長州藩関係の古文書類が世に流布しつつあった時代である。『福山志料』は「長州人筆記」から採ったとして「山内首藤家文書」を引用している。『西備名区』も同様で、「武将感状記」からの引用として「浦家文書」に所収された古文書を多数筆録している。推定天文十五年の大内氏奉行人奉書もこうした経路で備後の識者の目に入ったのではあるまいか…。こうした江戸後期の郷土史書が典拠とした史料の分析も今後の課題の一つである。
 理興の跡をついで神辺城主となった杉原豊後守が山手銀山城ではなく、八尾山城を居城にしていた可能性の検討も今後の課題の一つであろう。『閥閲録』の山手杉原氏の系譜には、盛重の先代として豊後守理興を挙げているが、山手三宝寺の過去帳を見る限り、初代銀山城主と伝えられる播磨守匡信と、豊後守の跡を継いで神辺城主となった盛重の間に「杉原豊後守理興」が入る余地は少ない。この点、豊後守理興と播磨守盛重に血縁関係が無かったとする従来の説は維持されるべきだ。木下氏は杉原豊後守を杉原惣領家の出身と推定しており(4)、もしそうであれば、かつて杉原惣領家の家城であった八尾山城に、山名理興が神辺に移った後、杉原豊後守が入城したとしても何ら不自然ではない。
大日本古文書『小早川家文書』所収浦家文書十四号
木下和司「大永七年九月の備後国衆和談と山名理興」(下)『芸備地方史研究』275・276
木下和司「備後国衆・杉原盛重の立場―毛利氏との主従関係を中心に―」『芸備地方史研究』281
注(3)参照

備陽史探訪の会
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop