びんご 古城散策・田口義之

◆八尾山城と山名氏(9)
                                    (府中市出口町) 〈193〉

府中市街地の背後にそびえる八尾山城跡
 山名理興が八尾山城から神辺城に居城を移したのは、「神辺和談」という政治の結果であると共に、経済的な要因が作用していよう。内海水運の活況によって、経済的な繁栄が鞆・尾道という沿岸部に移り、それにともなって政治的な拠点もより沿岸部に近い神辺に移す必要が生まれた。その象徴が街道の移動であった。
 古代、平城・平安の都と九州の大宰府を結んだ「山陽道」は、備中の高屋から備後に入り、神辺平野の北縁を通って国府のあった府中に至り、そこから芦田川の支流御調川流域を通って安芸国沼田郡の真良に抜けていた。それが、戦国末期には備後国分寺辺りから南に折れ、神辺城下を経て津之郷・赤坂・今津を通って尾道・三原に至る、いわゆる近世の「西国街道」のルートに変わったのである。神辺が政治経済の要所として繁栄したため街道が城下に引き寄せられたのか、街道が沿岸部を通るようになったことから神辺に城が築かれたのか。その前後関係は必ずしも明らかではないが、天正三年(一五七五)、九州の島津家久が上洛した際は、すでに尾道から今津を通るルートが街道として利用されている。天正一五年(一五八七)三月、豊臣秀吉もこの道を通って九州へ下向た。
 大永末年から天文初年(一五二八~三二)にかけてのある時期、山名理興が八尾山城から神辺城に移ったという出来事は、現在、両城に残された城郭の遺構からも確認できる。「畝状竪堀群」の有無がそれだ。
 畝状竪堀群は、戦国中期から後期(16世紀半ばから後期)にかけての山城に特徴的に見られる防御施設である。「竪堀」は山の斜面に垂直に堀切を入れ、敵兵の斜面での移動を阻止しようとした施設。「畝状竪堀群」はその竪堀を畑の畝のように連続して築くことによって更に敵兵の動きを阻止して山城の防御力を高めようとしたもの。
 備後南部でのその分布を見ると、永禄から天正期(一五五八~九〇)にかけて使用された山城(有地氏の大谷・鳥の奥城、福田氏の利鎌山城、楢崎氏の朝山二子城、杉原氏の銀山城、古志氏の大場山城、渡辺氏の一乗山城)には見られるが、それ以前に落城、或いは廃棄されたと考えられる諸城(宮氏の亀寿山城、志川滝山城、掛迫城)には見られない。そして、それは神辺城には残されているが八尾山城には残っていない。
 畝状竪堀群の有無で山城の使用年代を分けることが許されるならば、八尾山城はそれが導入される前の段階の山城で、神辺城はその後も使用された山城と言うことになり、それは山名理興が八尾山城を棄て神辺城に移ったことを、間接的に証明することになるのである。

備陽史探訪の会
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