びんご 古城散策・田口義之

◆八尾山城と山名氏(8)
                                    (府中市出口町) 〈192〉

山名理興が銅鐘を寄進した備後一宮吉備津神社
 山名理興の出自に関しては、『福山市史』上巻(以下市史)が、理興を山手銀山城の杉原氏とし、天文七年(一五三八)七月、大内義隆の命を受けて山名忠勝(氏政)の拠った神辺城を攻略、城主となり山名を号したとする説が永らく信じられて来た。この説が誤りであったことは、今までの叙述で明らかとなったと思うが、問題はまだ残っている。それは理興の「立場」である。市史は理興は大内義隆の命を受けて神辺城を攻略、以後天文十二年(一五四三)四月、尼子方に転ずるまで、一貫して大内氏に属していたとする。だが、その間の消息を物語る確実な文献史料は残っていない。
 大内氏と理興の関係を唯一つ示す、天正十九年(一五九一)十二月一七日付小早川隆景書状写(1)も、理興が天文一〇年(一五四一)の郡山合戦後大内氏から備後外郡を与えられたと述べるのみで、それ以前に大内氏に属していたとは一言も述べられていない。
 私は、天文元年(一五三一)から天文九年(一五四〇)にかけての期間、理興が大内氏に属していた可能性は極めて低い、と考える。
 この時期の政情は、享禄元年(一五二九)の大内義興の死去、天文元年の塩治興久(尼子経久の子)乱という、大内・尼子両氏にとって打撃となった事件から始まった。特に、塩治興久の乱は尼子氏にとっては大きな打撃で、このため経久は一時大内氏と和を講じ、興久の乱に当たることとなった。一種の空白が生まれたわけで、理興の神辺入城は、このタイミングを逃さず行われた備後国衆の自衛策であった可能性があろう。
 ところが、この勢力均衡状況は天文三年(一五三四)に崩れる。興久を自刃に追いやった尼子経久は、興久の岳父備後山内直通の甲山城を攻め、直通を城主の座から引きずり降ろした。天文五年(一五三六)三月のことであった。
宮上野介の居城、今大山城跡 (神辺町西中条)
 興久の乱を平定し、備後の雄山内氏を屈服させた尼子氏は息をふきかえした。尼子は再び中国山地を越えて備後・安芸になだれ込んだ。備後でも尼子の影響力は南部の沼隈郡に及び、経久の跡を継いだ詮久(後の晴久)は鞆安国寺役の負担を備後国衆に命じている(2)。安芸では高屋保の平賀興貞が尼子氏に応じ、頭崎城の興貞と白山城に拠るその父弘保との間で激しい戦いが続いた。この頃の尼子の勢いは強大で、頭崎合戦の際、毛利氏は石見阿須那上下庄から山県郡の壬生城、北城、備後三次郡の志和地城などを失い、備後の所領も尼子氏に侵略されるままとなったという(3)。
 こうして、背後を押さえた尼子詮久は上洛して幕府の実権を握ることを夢見て、備中・備前・美作を平定して播磨に侵入、「何れも敵はなく候」という有様であった。石山本願寺の証如上人は、天文六年十二月十四日、尼子氏の上洛に備えて尼子方の諸氏に音信を通じたが、その中に備後の宮上野介、同法成寺尾張守、同上総介の名があった(4)。特に上野介實信は「神辺和談」の立役者であって、その居城今大山は神辺城の北僅か一里余。理興一人大内方に属すことなど、この情勢の中、到底ありえないことであった。
(1)県史所収譜録渡辺三郎左衛門
(2)福山志料所収文書
(3)「毛利家文書」二五二
(4)石山本願寺日記所収「天文日記」

備陽史探訪の会
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