びんご 古城散策・田口義之

◆八尾山城と山名氏(7)
                                    (府中市出口町) 〈191〉

山名理興が銅鐘を寄進した備後一宮吉備津神社
 「神辺和談」が八尾山城の山名理興と、神辺城の山名氏政の和談とすれば、次に問題になるのは、その時期と内容である。
 時期に関しては、答えは容易だ。「神辺和談」を記した宮實信書状の上書に「案文腰状也、大永年中也」とある。理興の史料上の初出は天文元年(一五三二)だから、大永~天文元年(一五二一~一五三二)の間と言うことだ。さらに、木下氏が論証されているように、この年代は大永末年(一五二八)に絞られよう(1)。
 内容については、その後の歴史が示しているように、八尾山城の山名理興が神辺城の山名氏の後継者として神辺城に移るというものだったに違いない。
 以前、神辺城と山名理興のところで述べたように、天文元年(一五三二)理興は深津郡内の寺社の所領安堵を集中的に行なっている(2)。また、理興は天文元年十二月一日、和智氏の鋳師大工職安堵の承認を行なっている(3)。これも、寺社領の安堵と同じく、自己が守護山名氏の一国公権を承継したことを国内に示した記念碑的な文書の一つであろう。
 ここで、問題になるのは理興が掌握した「公権」である。理興は備後守護に就任したのであろうか…。その可能性はある。天文九年(一五四〇)、理興は備後一宮吉備津神社に釣鐘を寄進したが、その銘には「社務大願主山名宮内少輔源理興」とある。各国の例で言えば、一宮を修造護持するのは鎌倉初期までは国司、以後は守護の務めで、備後一宮吉備津神社に於いても明徳度の修造は備後守護であった細川頼長が行なっている(県史所収「水野記」)。少なくとも理興自身は「社務大願主」というからには守護職を意識していたはずである。
 私は、理興は少なくとも備後半国(或いは安那・品治・深津)の「分郡守護」であったと思っている。確かに、備後守護は但馬山名氏の家職ではあったが、管見の限り、天文元年から天文二十二年(一五三二~一五五三)までのほぼ20年間、但馬山名氏の惣領であった祐豊の備後関連文書は残っていない。これはこの間の守護(或いは分郡守護)が山名理興であったことを示しているのではないか…。
 惣領家以外の山名一族が神辺の所在する安那郡を領有していたことを示す史料は他にもある。応仁二年(一四六八)五月六日、将軍足利義政は、山名政清の所領「備後国安那郡」を細川教春に御教書を以って与えた(細川文書)。政清が敵(西軍)方に与同したためだが、もちろん、この御教書で直ちに教春が安那郡を知行したわけではない。教春が安那郡を支配した証拠はなく、以後も山名氏が同郡を領有していた。
 ここで、山名政清の所領が「備後国安那郡」とあるのには注意を要す。郡単位の所領は分郡守護に等しいと考えられ、或いはこの「備後国安那郡」が神辺山名氏の所領となり、理興に引き継がれたものかも知れない。
(1)木下和司「大永七年九月の備後国衆和談と山名理興」(上)『芸備地方史研究』274 2011年2月
(2)県史所収「水野記」
(3)県史所収「真継文書」

備陽史探訪の会
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