びんご 古城散策・田口義之

◆八尾山城と山名氏(6)
                                    (府中市出口町) 〈190〉

神辺平野から望む神辺城跡
 理興を伯耆守護山名豊興の近親者と考えれば、理興の八尾在城と、神辺移城は当時の政情から無理なく理解出来る。
 理興が神辺城主となり備後半国の守護代(分郡守護と言っても良い)となったのは木下和司氏が論証されたように大永末年(一五二八)の「神辺和談」と見て誤りあるまい。
 問題はその「和談」の内容である。木下氏はその和談を備後国衆間の和談としている(注1)が、それでは「神辺」の意味が明らかでない。何故神辺が和談の焦点となったのか…。
 その前に、地名としての神辺の初出を遡ってみると、大永末年の宮實信書状(閥閲録遺漏4の2)以前、『渡辺先祖覚書』に「神辺今大山備中衆」という表記が見られる。この表記は、覚書の筆者渡辺兼が山内直通方として木梨氏と戦った部分に出てくるもので、渡辺兼は草戸で神辺今大山備中衆と戦い、苦戦したとある。文意を察するにこの表記は神辺に本拠を置いた勢力と、今大山すなわち宮實信、及び隣国備中で實信に与力した勢力を意味していよう。
 山内、木梨両氏間に「和与」が成立したのは永正九年(一五一二)の事だから、大永八年を去る16年前には既に神辺が備後南部の要衝として登場し、「或る勢力者」が拠点を置いていたことがわかる。
 おそらく、16世紀初頭神辺に本拠置いていたのは理興と同じく山名氏の一族であろう。
 神辺に本拠置いていた山名氏としては「但馬村岡山名家譜」に山名煕之の嫡男氏明が神辺城主となり、以後、天文年中の氏政に至ったとある。尚、この山名氏は神辺城下の地名「村尾」を採って「村尾」氏を称したという(同上)。
府中市から望む八尾山城跡
 父澄之は、現職の伯耆守護であった山名尚之と対立し、永正三年(一五〇この伝え、何処まで信憑性があるかさだかでないが、実はこの山名氏も系譜を辿れば伯耆山名氏に属しているのである。すなわち、山名氏系図の諸本によると、煕之は山名氏発展の基礎を築いた山名時氏の嫡男師義の孫にあたり、父氏之の弟が「明徳の乱」で将軍足利義満に叛して滅ぼされた満幸であった。氏明自身の存在は一級史料で確認できないが、氏明の兄弟と考えられる教之は伯耆・備前守護として史料に現れ、文明五年(一四七三)死去するまで伯耆守護の座にあった。教之の跡は三男の之弘が継ぎ、以後伯耆守護はその子澄之、その子豊興と相続されることとなる(注2)。
 この系図を信じ、尚且つ、理興を伯耆山名氏の豊興の近親者として良いならば、通説で理興によって神辺城から追われたとされる山名氏政は、理興と大変近い縁者と言うことになる。
 ここから導かれる推論は、「神辺和談」とは、神辺山名氏と八尾城に居た理興との和談であったということだ。
(1)木下和司「大永七年九月の備後国衆和談と山名理興」(上)『芸備地方史研究』274 2011年2月
(2)山名氏の系図については、「寛永重修諸家譜」「尊卑分脈」「群書類従」所収の系図を参照

備陽史探訪の会
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