びんご 古城散策・田口義之

◆八尾山城と山名氏(5)
                                    (府中市出口町) 〈189〉

 改めて山名理興の出自について考えたい。繰り返しになるが、理興の出自については、『福山市史』上巻が『萩藩閥閲録』巻六八所収の杉原与三右衛門家系譜をもとにして、永らく山手杉原氏の出身とされてきた。ところが近年木下和司氏の詳細な研究によって、この説は否定され、但馬山名氏の出身とする説が支持を得つつある(注Ⅰ)。
 私も、理興を山名氏の出身とする見解には異存がない。だが、前号で論じたように、木下氏の「彦次郎」すなわち「山名理興」とするには、躊躇を禁じえない。 
 一つは、前号で述べたように、備後には山名豊澄など、理興以外にも土着した人物が居り、彦次郎もそうした備後に派遣された人物かもしれない。
 もう一つは、理興の実名である。木下氏は、理興の「興」を大内義興の偏諱を受けたものと推定しておられるが、偏諱は本来上位の者が下位の者と擬制的な親子関係を結ぶもので、それを実名の下の文字に使うことはありえない。氏は備中河相氏の例を持ち出して、立証されようとしているが、河相氏の実名が「清重」であったかどうか証拠はない。
 理興の「興」は、大内義興の偏諱を受けたものとするよりは、理興の家の「通字」が「興」であったとする方が良い。実は理興に近い世代で実名の下の文字に「興」を用いた山名氏が居るのである。伯耆守護家の山名豊興がそれだ。
 豊興は、伯耆山名氏の一族で、父は相模守澄之とされている。
伯耆尾高城跡 (鳥取市米子市)
 父澄之は、現職の伯耆守護であった山名尚之と対立し、永正三年(一五〇六)頃、出雲尼子経久の支援を得て尚之を追放、伯耆守護となった。しかし、その実権は尼子氏の握るところなり、晩年は尼子氏と断ち、南条・小鴨氏など反尼子勢力と結んだ。豊興はその子で、父の後をついで天文初年(一五三一)頃、伯耆守護となったが、名目的な存在で、やがて守護職自体も尼子氏のものとなり、歴史の表舞台から消えていった(注2)。
 澄之や豊興の活躍年代から推定すると、理興は豊興の子とするよりも兄弟とした方が良いかもしれない。
 実は、以前にも述べたことがあるが、八尾山城の山名氏に関しては、古くから伯耆山名氏の出身とする説があったのである。『西備名区』などによると、山名理興の父は、山名宮内少輔時興といい「伯耆米子を領し、尾高の城主なり。山名家衰微により、此の処へ移る。尾高に在りて当城兼領せしなり」とあって、理興の山名家は伯耆出身としている。今までこの説は理興の後神辺城主となった杉原盛重が伯耆尾高の城主となったことから、「混同」されたものとして見向きもされなかったが、理興を豊興の縁者と考えれば、あながち荒唐無稽な説ではない。
(1)木下和司「大永七年九月の備後国衆和談と山名理興」『芸備地方史研究』274・275・276など
(2)豊興の伯耆守護在任の徽証は「伯耆志」所収瑞仙寺文書天文十一年十月九日付山名豊興書下など

備陽史探訪の会
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