びんご 古城散策・田口義之

◆八尾山城と山名氏(4)
                                    (府中市出口町) 〈188〉

府中八尾山城跡近景
 山名理興について考えてみたい。理興は戦国時代の備後にあって、最も「戦国大名」に近付いた人物である。天文初年(一五三二頃)彗星のように現れ、神辺城主として備後南部に君臨し、毛利元就と備後の支配権をめぐって争った。残念ながら神辺合戦で敗北し、戦国大名として名を残すことは無かったが、毛利元就の中国制覇の過程で、通り一遍の叙述で済まされることの多い備後戦国史に、花を添えた人物である。
 だが、その出自は謎に包まれている。『福山市史』上巻では、山手杉原氏の出身とされ、それが通説となっていたが、最近では気鋭の中世史家木下和司氏によって、但馬山名氏の一族で祐豊の近親者「山名彦次郎」こそ理興であるとする新説(注)が提唱され、支持を広げつつある。
 木下説の弱点は、彦次郎を理興とする決定的な証拠がないこことである。氏は大永八(一五二八)年五月十三日付山名祐豊書状に登場する「彦次郎」と、同年5月十四日付太田垣誠朝の書状に登場する「宮内少輔」を同一人物とし、理興に比定しているが、当時の交通状況からして1日違いで、一方は彦次郎と呼び、一方が宮内少輔と呼ぶことがありえるであろうか。しかも、祐豊書状に添えられた山名氏老臣の副状には「彦次郎殿様」とあるのに対し、同じ山名氏の老臣太田垣誠朝が同一人物を「宮内少輔」と呼び捨てにしている。ありえないことではないが不自然である。
 弱点があるとは言え、木下氏が理興の出自を山名一族としたことは大いに評価すべきである。
氏が強調するように史料を厳密に調べれば、理興を杉原氏とする確たる証拠は全くない。
 私が木下説に魅力を感じながらも同意することができないのは、守護山名氏の一族の中には、理興以外にも備後に土着した人物を確認できるからである。山名三郎豊澄がそれだ。
 山名豊澄は、備後杭城主と伝わる人物である。『芸藩通志』巻百備後国御調郡六城虚宅址戦場付に「高根山 八幡城、並に下津村にあり、高根は、山名三郎豊澄、同左近が所居、山名家系図に、備後杭城に居るとあり、高根山の事と見えたり」また同書御調郡土官流寓のところにも、「山名三郎豊澄 豊澄は文明年中、尼子に属して、下津村、杭城に居る、子左近に居たりて亡ぶ」とある。文明年中云々の記載から信憑性に疑問が持たれてきたが、豊澄自身は実在の人物で、しかも神辺合戦の関係文書に登場する人物である。
 神辺合戦で勝者となった毛利氏は家臣や味方国人衆に多数の感状を発したが、その文中に現れるのが「豊澄」であった。
「今度神辺表、豊澄同前に御馳走、誠に畏入候、殊両日固屋懸御粉骨、更無申計候(下略)」(毛利家文書二八三毛利元就同隆元感状案)実際にこの感状の実物は「湯浅家文書」に残っており、まず間違いないものである。
 元就が感状の文言に敢えてその名を入れたのは、豊澄が山名氏の一族として、「ある種」の権威を持ち、備後国人衆の間で一定の支持を得ていたからであろう。大永八年の文書に見える「彦次郎」はこの豊澄かも知れない。木下説に魅力を感じながらも同意できない理由である。
(注)木下和司「大永七年九月の備後国衆和談と山名理興(下)」『芸備地方史研究』275・276号 2011年4月

備陽史探訪の会
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