びんご 古城散策・田口義之

◆八尾山城と山名氏(3)
                                    (府中市出口町) 〈187〉

府中八尾山城跡近景
 備後守護職は、応仁の乱で東軍に味方し敗北した山名是豊の後、山名宗全の末子(嫡男教豊の子とも言う)政豊が継ぎ、乱後の後始末をすることとなった。 
 山名一族の惣領となった政豊に課せられた使命は大きかった。大乱は山名一族に打撃を与えた。嘉吉の乱で獲得した備前・播磨・美作の3カ国が、旧主赤松氏によって奪われ、その回復が政豊の肩に大きくのしかかってきたのである。
 文明一五年(1483)、備前に攻め入った山名勢は、同国福岡で赤松勢と戦端を開いた。この時には、父の代官として備後に在国していた又次郎俊豊が備後の軍勢を率いて参戦した。『備前文明乱記』によると、俊豊は「備後の尾道を打立。同国の国分寺に着陣し。分国他国の勢を催す」とあり、俊豊は尾道から陸路神辺の国分寺に着陣、ここで各所から馳せ参ずる軍勢の到着を待ち、備前に向かった。
 この時、俊豊が八尾山城に本拠を置いていたかどうかははっきりしない。だが、この記述で文明一五年の段階で、「神辺」が山名氏の拠点となっていなかったこと。すなはち、神辺黄葉山城が存在していなかったことが明らかとなる。もし、神辺城が既に存在し、山名氏の守護所となっているならば、俊豊が「国分寺に着陣」ということなどありえないからだ。従来からの通説、「備後守護山名氏は神辺に守護所を置いた」は、この点からも見直さなければならない。
 山名氏と赤松氏の合戦は、地の利を得た赤松氏優勢の内に推移し、最終的に長享二年(1488)、播磨坂本の合戦で山名氏が大敗し、赤松氏の完勝となった。
 この敗戦は、山名氏内部に深刻な対立を生んだ。備後や但馬の国人衆の一部が政豊から離反し、俊豊を擁して独立の姿勢を示したのである。以後、この山名氏の分裂抗争は、明応七年(1498)俊豊が死去するまで続き、応仁の乱で打撃を受けた山名氏の勢威はさらに低下した。
 政豊は翌明応八年(1499)但馬国で死去し、その跡は俊豊の弟致豊が相続した。以後、備後守護職は致豊からその弟誠豊へ、さらに誠豊から養子の祐豊へと受け継がれていったが、備後には守護代を派遣するのみで、やがて歴史から消えていった。
 この間、八尾山城がどんな役割を果たしていたか、誰が居城していたのか、明らかでない。
 八尾山城が再び歴史の表舞台に登場するのは、16世紀の前半、山名宮内少輔理興の代になってからである。
 理興の八尾山在城に関する同時代史料は存在しない。江戸時代後期の地誌『備陽六郡志』外編「後得録」本山村のところに、「八尾の城 山名宮内少輔理興の古城なり。旗立石という有、旗を立てたる穴あり」とあるのが、唯一、信憑性のある伝承である。

備陽史探訪の会
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