びんご 古城散策・田口義之

◆八尾山城と山名氏(2)
                                    (府中市出口町) 〈186〉

府中八尾山城跡遠望
 「宮田備後守殿様守護代として御下向にて、府中八尾に御在陣候(「渡辺先祖覚書」)」は、中々意味深長な言い回しである。覚書の筆者渡辺越中守兼は、なぜ、「御在城」と書かずに「御在陣」と書いたのか…。ここに八尾山城と山名氏の関係を解く鍵が隠されている。
 結論を言えば、兼が在城と書かず、在陣と記したのは、それが平穏な「入城」ではなく、軍事的な「占領」であったからに違いない。
 先に、八尾山城から南に芦田川を挟んで向かい合う土生町の淵上城のところでも述べたが、府中を代表する山城である八尾山城の城主に関しては、永らく信じられてきた杉原惣領家説が新説の登場によって揺らいでいる。新進気鋭の中世史研究者である木下和司氏によって、杉原惣領家の居城は八尾山城ではなく、福山市山手町の銀山城であるとする新説(注)が提唱され、研究者の承認を得つつある。
八尾山城が杉原氏惣領家の居城でないとすると、その城主は誰なのか…。当然、国府城すなわち八尾山城説が浮上し、城主は備後守護であった山名氏と言うことになる。
 だが、それでは覚書の筆者が守護代の入城を「在城」と書かずに「在陣」と書いた意味が理解できない。守護山名氏の居城に守護代が入城するのに、軍事的な占領(在陣)は必要ないからだ。
 淵上城のところでも検討したように、八尾山城は杉原氏の惣領家の居城であったとする方が万事スムーズに理解出来る。庶家である木梨杉原氏が府中に大きな所領を持っていたのは、惣領家のそれを継承したものと考えた方が理解し易いのである。
「宮田備後守殿様守護代として御下向にて府中八尾に御在陣候」 とある
 しかも、中世城郭史を検討すると、国府城と山名氏のところでも述べたように、室町時代前期の記録に登場する国府城は、国府の南に存在した平城(土居城)とした方が良く、この点からも国府城八尾山城説は否定されなければならない。
 西軍方の備後守護代宮田備後守教言が八尾山城に「御在陣」したのは、敵対した杉原氏惣領家の居城を軍事的に制圧したことを意味しよう。
 応仁の乱に際して、杉原氏一族が東軍山名是豊に味方してことは間違いない。杉原氏の庶家である高須の杉原氏では、是豊の命に応じて、当主千代松丸の名代として杉原駿河守を上洛させた(「閥閲録六七)。文明元年(一四六九)には、山内豊成を中心とした西軍方は、杉原氏の本領杉原保内に侵入し、同保内の苧原(現福山市赤坂町)で、東軍の軍勢と戦った(小早川家文書など)。本領内に西軍の侵入を許しているのだから、杉原惣領家も東軍に属していたことは確かだ。
 乱後、西軍方に所領を押領された杉原氏一族は、京都杉原氏の伊賀守賢盛を通じて幕府に所領の安堵を願い出た。文明十三年(一四八一)、幕府は杉原氏一族の要求を認め、その所領を一族に返還した(「親元日記」文明十三年三月十七日)。所領の返還を受けた杉原一族は、盛平以下七名連署して幕府政所に礼銭五百疋を納めたが、この中に惣領家の名前はない。
 宮田備後守教言の「御在陣」によって杉原惣領家は没落し、八尾山城は、以後守護山名氏の備後支配の拠点として利用されたと判断できる。
(注)木下和司「古文書を読む楽しみ(2)」備陽探訪156号―2010年10月

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