びんご 古城散策・田口義之

◆八尾山城と山名氏(1)
                                    (府中市出口町) 〈185〉

府中八尾山城跡遠望
 永享九年(一四三七)の備後守護山名氏の「お家騒動」で、争奪の的となった「国府城」が府川町の土居城であったにせよ、室町時代後期、備後府中の詰城となったのは間違いなく、その北に聳える八尾山城であった。その初見は、文明七年(一四七五)のことである。
 文明七年は、備後の「応仁の乱」が西軍方の勝利で終わった年であった。備後の応仁の乱は、守護山名氏の骨肉の争いでもあった。現職の守護山名是豊が東軍の細川勝元に応じたのに対し、前守護で是豊の父であった山名持豊入道宗全は西軍方の総帥となり、備後の覇権をめぐって激しく争った。両者はそれぞれ味方の国人衆を率いて京都で戦ったが、文明三年(一四七一)頃から戦局の焦点は備後に移った。西軍方優勢の情勢に焦りを感じた是豊が軍勢を率いて帰国し、巻き返しを図ったためであった。これに対して西軍の総帥として京都を離れることが出来なかった入道宗全が自分の代官として備後に派遣したのが宮田備後守教言であった。
 教言は、備後に入ると庄原市本郷の甲山城に入って備後西軍の総指揮を取った。甲山城は備後西軍の中心となった山内新左衛門尉豊成の居城で、教言は山内氏を中心とした国人衆の力を結集して東軍の山名是豊に対抗しようとした。
 東西両軍の合戦は、文明七年に大詰めを迎えた。長躯備北に軍を進めた山名是豊は、軍を二分し、子息頼忠の指揮する一隊は江田氏の居城旗返城(三次市三若町)を攻撃し、自らは主力を率いて、教言の籠城する山内氏の甲山城に迫った。西軍方をあと一歩まで追い詰めた是豊であったが、その足元は意外なところから崩れ始めた。
 「渡辺先祖覚書」
 その頃、東西両軍の合戦は備後甲山城と共に、安芸高山城の攻防も大詰めを迎えていた。その高山城が是豊方の救援も空しく西軍方の宮田教言や宮若狭守などの斡旋で開城したのである。さらに、それまで東軍方の一翼を担っていた安芸の毛利豊元(元就の祖父)が西軍に寝返り、旗返城を攻撃中の山名頼忠の軍勢を切り崩し、甲山城の後詰として江田繁ヶ峰に出陣した。この知らせに甲山城を攻撃中の是豊軍に動揺が走り、攻勢に転じた西軍方によって、是豊軍は敗北、是豊自身も命からがら石見(島根県西部)に敗走した。西軍方の完勝であった。
 戦後処理は備後守護となった山名政豊(宗全の孫)から改めて備後守護代に任ぜられた宮田教言によって進められた。そして、その本拠となったのが府中八尾山城であった。
 『渡辺先祖覚書』は言う、「(前略)国衆何れも甲山在城候処、是豊様御取懸にて(中略)然処安芸国毛利殿後詰として江田繁ヶ峰へ陣取られ候処、是豊様陣中に種々様々て御陣破れ石見国崩退候(略)然処山内上野介殿備後国外内郡共に威勢申計なく候、宮田備後守殿様守護代として御下向にて府中八尾に在陣候(後略)」(『山城志』第七集所収)
 この記述が八尾山城に関する最初の確実な記録であった。

備陽史探訪の会
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