びんご 古城散策・田口義之

◆栗柄茶臼山城と徳毛監物
                                    (府中市栗柄町) 〈183〉

栗柄茶臼山遠望
 府中市の南郊、芦田川の右岸一帯には、既に紹介した土生町の淵上城跡以外に、もう一つ著名な城跡が知られている。栗柄町の茶臼山城跡がそれだ(茶臼山城は複数存在するので、ここでは便宜「栗柄茶臼山城」として置く)。
 芦田川の左岸堤防を上流に向かって走って行くと、相方の城山を過ぎてしばらくすると、左前方に円錐形をした形のいい小山が見えてくる。これが、今回紹介する栗柄の茶臼山城だ。西南の麓に南宮神社が鎮座するため南宮後山城とも言う。
 城跡一帯は新四国八十八箇所のお大師道となっているため、この道を利用すると、簡単に城跡を訪ねることができる。
 神社境内から右手に進むと、小さな尾根に出、ここから
山頂を目指して登っていく。山頂の曲輪は径10メートルと小さく、ここが城跡だと知らない者には、単なる石仏が立つ広場にしか思えない。北に2つの小曲輪、東に堀切を挟んで長さ40メートルほどの細長い曲輪があるが、どれも加工の度合いが低く、自然の尾根にしか見えない。
 この茶臼山一帯が一大城塞群であったことが判明したのは平成元年から5カ年計画で実施された、県の中世城館総合調査の過程であった。
 その成果である『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』第3集によると、茶臼山城は今まで知られていた、南宮神社背後の山頂に存在した城郭遺構以外に、そこから南に延びた低い丘陵上に広く中世山城の遺構が分布することが判明した。
 具体的には、標高163メートルの山頂から南に伸びた尾根は二つのピークを持ち、それぞれの頂上は曲輪に加工され、更にそのピークから東に削平された尾根が100メートルほど伸びている。尾根上には曲輪を守るための堀切も確認できる。
 要するに、新たな調査によって、城は3つの部分に別けることができ、全体として一つの山城として機能していたことがわかったのである。
 茶臼山城が3つの小城郭で構成された「一城別郭」の山城であったことが判明すると、それまで錯綜していた栗柄村の古城跡に関する伝承が分りやすくなる。『備後古城記』などの江戸時代の文献によると、芦田郡栗柄村には、大角右衛門尉の土居城、徳毛監物の板屋城、それに加賀良八郎の南宮後山城、福田助三郎の加山城の四城があったという。この内、『福山志料』に「土居城 又板屋城トモ云」とあるので、土居城と板屋城は同一の城跡と考えられる。すると、栗柄村には土居(板屋)、南宮後山、加山の三城が存在したことになり、県の中世城館遺跡総合調査の結果とも合致するのである。
 今何れの城が、茶臼山城跡のどの部分にあたるかは不明だが、城主に関する伝承を検討すると、城の凡その来歴が判明する。『福山志料』に加山城の福田氏は淵上城の杉原氏と戦って没落、土居城の徳毛氏は杉原氏の家臣とあることからすると、茶臼山城は地域の拠点的な城郭として機能し、最終的には木梨杉原氏の支配下に入ったものと推定される。最後の城主と考えられる徳毛氏は、在地の土豪で、土呂毛周防守と同じく木梨氏の同名、或いは宿老としてこの地に配された者と考えて良いだろう。

備陽史探訪の会
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