びんご 古城散策・田口義之

◆淵上城と木梨氏(6)
                                     (府中市土生町) 〈182〉

南から見た渕上城跡  (手前は府中市水道局) 
 淵上城に拠った木梨氏は、「尊卑分脈」などの系図によると、杉原氏の始祖伯耆守光平三代の孫僧真観の孫信平が足利尊氏より備後木梨庄を拝領し、「木梨」を号したことに始まる。
 杉原氏の惣領家は、真観の兄忠綱が継ぎ、以後伯耆守光房、同直光、四郎左衛門尉満平、彦太郎光親と続いた。系図は光親で終わっているが、八代将軍義政の近習を勤めた左京亮親宗が、杉原本庄の段銭五貫文を幕府に納めている(康正二年造内裏段銭並国役引付)ことから、この親宗が光親の跡を継いで幕府に出仕したと推定される。
 杉原氏惣領家の活動は、明応二年(一四九三)将軍義材の河内出陣に従った伯耆守(親宗)を以って途絶える(東山時代大名外様付)。
 明応二年は戦国時代の開幕を告げる重要な年であった。河内出陣を強行した将軍義材に対して、批判的であった幕府管領細川政元は、京都でクーデターを決行、将軍義材を廃し、新たに清晃(後の義澄)を新将軍に擁立した。このクーデター(明応の政変)によって、杉原氏の属していた将軍奉公衆は二派に分裂した。多くは義材を棄てて新将軍の元に走ったが、一部は京都を没落した義材に従って各地を流浪した。
 結論から言えば、この政変で杉原一族も義材派と新将軍義澄派に分裂し、これが両者の明暗を分かつ元となった。
 義材の奉公衆の内、西国筋の者は永正五年(一五〇八)春、義材を擁して上洛した大内義興に従って入京し、所領を安堵された。それに対し、義澄派の奉公衆は義澄に従って近江に没落した。この時、在地性が強く、在国していた木梨氏は義材に従って所領を安堵され、在京していた惣領家は京都を追放され没落したと判断される。そして、惣領家の所領は同じ一族の木梨氏に与えられた。惣領家の持っていた府中の所領は、こうして木梨氏のものとなったと推定される。
 淵上城は、こうした木梨氏の府中進出の拠点として築城され、使用されたはずだ。
 栗柄・土生一帯が木梨氏の支配下に入ったのは、惣領家の没落より前のことと考えられる。惣領家が健在の頃は、淵上城の重要性は余りない。惣領家の居城八尾山城は、惣領家の家臣団によって守られ、木梨氏の所領も安泰であったろう。
 ところが、惣領家の勢威も応仁の乱を迎える頃から揺らぎ始めた。より将軍と密接な関係を結んでいた惣領家は在京することが多く、在地から浮き上がった存在になってきた。応仁の乱の最中、西軍の備後守護代宮田教言の「八尾在陣」はこのことを端的に示している。
 淵上城の築城は、この頃ではあるまいか…。そして、以後、木梨氏の府中進出によって、同城はより重要性を増し、城番も譜代の家臣ではなく、木梨氏の一族が勤めることとなった。天正年間(一五七三~一五九二)、木梨氏の当主民部大輔元恒の実弟、七郎左衛門尉恒珍が淵上城に在城したのは、こうした理由からであった。

備陽史探訪の会
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