びんご 古城散策・田口義之

◆淵上城と木梨氏(5)
                                     (府中市土生町) 〈181〉

渕上城跡  (一の曲輪の様子)
  もう少し、木梨氏と府中との関わりについて、考えてみたい。
 「木梨領」に関する史料はもう一点知られている。 

〇毛利氏奉行人打渡状(閥閲録五十九)
「打渡之事
 1、弐百石 備後府中
        木梨領内
    以上
 天正十九年十一月十五日
      治部大輔元清 判
      (以下七名連判)
平佐伊豆守殿」

 この文書も、毛利氏の木梨領処分に関するものの一つで、本来、詳細な現地の様子を示した「打渡坪付」が添えられていたはずだが、それは伝わっていない。
 先に紹介した飯田七郎左衛門尉宛の打渡状(閥閲録百三十二)では、「備後木梨領内 府中」となっているが、ここでは「備後府中 木梨領内」となっている。
何れにしても、「府中」は芦田川左岸の旧国府の置かれた府中市元町を中心とした地域だから、木梨氏の勢力が淵上城から芦田川を越えた、府中市中心部にまで及んでいたことを示している。
 木梨氏と府中の関係を考える場合、避けて通れないのは、府中と杉原氏の関係である。最近、異説が現れて、その関係が少し危うくなってきたが、府中市街地の背後に聳える八尾山城は杉原氏惣領家の居城として長く信じられてきた。
 建仁二年(一二〇二)、備後守護に任ぜられた杉原伯耆守光平が築き、以後杉原氏惣領家の居城として長く使用された…。これが八尾山城に関する従来の通説であった。
 ところが、数年前、福山市北吉津町の真言宗胎蔵寺で本尊の釈迦如来坐像から「胎内文書」が発見されたことによって、この通説が怪しくなってきた。杉原氏の名字の地「杉原保」が、今まで言われてきた御調郡の東北部(尾道市原田町一帯)ではなく、福山市の丸の内から本庄町にかけての一帯であることが明らかとなったからだ。しかも、木下和司氏の一連の研究(「杉原氏の出自について」『山城志』第一六集など)によって、杉原氏の始祖伯耆守光平は元京都の土御門家の諸大夫で宗尊親王(鎌倉幕府六代将軍)に従って鎌倉に下向、幕府御家人になったことが明らかにされた。
 つまり、この新説の登場によって、八尾山城と杉原氏の結びつきは明らかではなくなり、最近では山名氏との関係が重視されるようになったのである(続『山城探訪』など)。
 しかし、今回のように、杉原氏の惣領家ではなく、庶家の木梨氏の視点から、杉原氏と府中の関係を見直してみると、もう一度旧来の通説を再検討する必要が認められる。「備後木梨領内府中」或いは「備後府中木梨領内」など、木梨氏が府中市中心部に所領を有するようになったのには、惣領家の八尾山在城があったとする方が理解し易いのである。

備陽史探訪の会
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