びんご 古城散策・田口義之

◆淵上城と木梨氏(4)
                                     (府中市土生町) 〈180〉

北の麓に残る井戸跡(道路の建設で半減されている)
 備後南部の有力国人衆であった木梨氏が、毛利氏によって所領を没収され、没落したのは天正一九年(1591)のことであった。
 『木梨先祖由来書』という、木梨氏の子孫に伝わった記録によると、それは「木梨家、毛利輝元卿のお心に叶わざる」ことがあったためとある。危険を感じた木梨氏は、同じく取り潰しの危機にあった松永本郷の城主古志氏と共に謀って、「太閤公直の旗本に成度と、色々謀略を廻らし」た所、ことが露見して領地没収の憂目に合ったという。
 「輝元卿のお心に叶わざる事」とは、直接には天正十年(1580)春の備中高松の陣で、木梨氏が織田方に内通したことを指す。
 この時、毛利氏は羽柴秀吉勢に対して、敗北寸前の状況にあり、旗下国人衆の内通を疑った毛利氏は、敵と対戦中にもかかわらず彼等から人質を差し出させた。その中に、木梨氏もいた(『閥閲録』53、楢崎与兵衛書出、楢崎筑後守御断書)。
 天正一九年は、戦国大名毛利氏が、豊臣政権下の近世大名に脱皮する大きな節目となった年である。
 それまでの毛利氏は、備後安芸の国人衆と対等に近い関係にあった。毛利氏は両国と石見を加えた三国の国人衆の盟主として戦国大名に成り上がった。そのため、毛利氏が合戦で劣勢に立つと、天正十年の高松の陣のように利を見るに敏な国人衆が、雪崩を打って敵方に内通するという事態も起りえたのである。
 ところが、この毛利氏が豊臣政権下の大大名の地位を固めると、国人衆に対する処遇を一変する。それまで国人衆に対して低姿勢で接していた輝元は、態度を一変、彼等に対して主君として高姿勢で臨むようになった。今までは国人衆の支持がなければ成り立たなかった毛利氏の権力が、こんどは豊臣政権という強力な権力のバックアップによって家臣や領民を支配するようになったのである。
 輝元の「国人コンプレックス」は相当なものであったようだ。高姿勢に転じた輝元は、彼等国人の通称まで変えさせている。それまでの国人衆は毛利氏と同じように、「豊前守」とか「式部大輔」のような重々しい官途名、受領名で呼ばれていた。それを輝元は「〇兵衛」「〇左衛門」に変えさせた。三吉式部大輔広高を三吉新兵衛、宮上総介景盛を宮瀬兵衛、といった具合に…。
 そして、豊臣政権の強力な後押しで「惣国検地」を実施し、それまで反抗的で、「輝元のお心に叶わなかった」国人衆を弾圧、彼等の勢力を一気に削減したのである。
 この結果、淵上城の木梨氏も没落したわけだが、木梨氏の没落に関しては、もう一つの解釈も可能である。それは、木梨氏が「尾道」と「府中」という、備後の政治経済の中心地を押さえていたため、毛利氏の大名権力と競合。結局、豊臣政権の支持を得た毛利氏が木梨氏を倒し、備後の支配権を握った、こう考えられるのだ。

備陽史探訪の会
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