びんご 古城散策・田口義之

◆淵上城と木梨氏(3)
                                     (府中市土生町) 〈179〉

北の麓に残る井戸跡(道路の建設で半減されている)
 府中市街地の南に位置する栗柄・土生町一帯に木梨氏が確固たる領主制を展開していたことは、次の史料からも確認できる。

小早川隆景書状(元亀三年)
「木梨・古志人質の事、今日これを渡し進らすべき由に候、然らば人体からの事相尋ねるの処、彼の家来にて年寄をも仕り候もの、ここもとへは罷り出ず候、此の注文前まて候、在所に居候ものは只今として成らざる事に候間、土呂毛周防守跡付又八郎・古志弥兵衛尉召し置かれ候哉と存じ候、右の趣披露有り、承り候はば即案内者相副え上せ進らすべく候、ご返事待ち存じ候、恐々謹言
 八月十九日 隆景 判  」
上書「新四郎殿参 又四隆景」

 元亀三年(一五七二)、備後南部で、古志氏と木梨氏が合戦を始めた。事の起りは古志氏の家老福田次郎兵衛が仕掛けたものと伝わるが(木梨先祖由来書)、合戦半ばで毛利氏より仲裁が入り、両者が毛利氏に人質を提出し和議を結ぶこととなった。この時、その仲立ちをした小早川隆景が両氏が出した人質の身分に不満を持ち、改めて木梨氏からは年寄土呂毛周防守の嗣子又八郎を、古志氏からは同じく古志弥兵衛尉を召し出すことを毛利氏に伝達するよう家臣の脇兼利に命じたもの。
 ここで注目したいのは、木梨氏の年寄(家老)衆に「土呂毛周防守」なる人物が居たことだ。「土呂毛」は栗柄町内の字名である。府中市の中心から扇橋を渡って2キロほど南に進むと谷は左右に分れ、県道48号線をそのまま進むと尾道市の東部をかすめて福山市本郷町に至る。
 土呂毛は、その県道が左に大きくカーブする辺りから右手(西側)一帯の地名である。木梨氏が淵上城に在城した時代には、ここは栗柄と木梨氏の本拠木梨鷲尾山城を結ぶ往還の栗柄側の出口にあたる要衝で、この地に木梨氏の重臣が配されたとしても不思議ではない。
 土呂毛氏は木梨氏の一門で土呂毛に土着した者か、あるいは在地の土豪であったにせよ、後には木梨氏の「同名(一門)」となり、一族同様の待遇を受けた有力者であったことは間違いない。
 木梨氏が芦田川右岸の土生・栗柄町一帯に強固な地盤を持っていたことは、以上の記述で了解いただけると思うが、左岸の出口町から目崎町一帯にも所領の一部が存在した可能性がある。
 天正一九年(一五九一)、惣国検地の結果、木梨氏は所領を没収され没落する。そして、その旧領は毛利氏の譜代家臣に分与されたが、その一人飯田氏に与えられた「一、百石、備後木梨領内府中」が後世の記録によって出口町に存在したことが判明しする(『閥閲録』一三二、『広島県史』近世資料編1)。木梨氏は「備後府中」に相当大きな所領を持っていたとしなければならない。

備陽史探訪の会
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