びんご 古城散策・田口義之

◆城か端(岩淵)城と佐藤氏
                                     (尾道市浦崎町) 〈176〉

城か端 (岩淵) 城跡  <尾道市浦崎町>
 城か端新城と言うからには、旧城がなければならない。その候補地は、浦崎小学校の建つ丘から、南に100メートルほど離れたところにある城か端城である。
 平野の中に孤立した標高17メートルの小さな丘で、南北100メートル、東西50メートルを測り、山頂に三段の削平された曲輪跡があり、現在、墓地や畑として利用されている。
 丘の周囲の平野は近世の干拓地だから、城が存在した時代、周囲は海だった筈で、典型的な「海賊城」の立地と言える。
 但し、規模は小さい、山頂の主曲輪は南北40メートル、幅10メートルの細長い平坦地で、東西に一段下がって幅5~10メートルの帯曲輪を設けている。
「新城」が現在の浦崎小学校の敷地の規模だったとすれば、余りにも狭小な規模である。果たしてこの城が新城の「旧城」と言えるのかどうか…。
 ここで一つ問題となるのは、この城の城名である。この稿では、『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』の記載にしたがって、この平野に孤立する小さな山城を「城か端城」として紹介した。だが、『西備名区』などの近世の地誌類には「城か端新城」の記載はあっても「城か端城」の記載はなく、代わりに「岩淵城」の記載がある。
 これをどう理解すればいいのか…。一つの解釈は、県の報告書に記載された「城か端城」は「岩淵城」の別名で、この二つの城は同じものとする考えである。確かに、現地を訪ねると、城か端城は急崖に囲まれた弧丘で「岩淵」の名に相応しい形状をしている。
 この両城が同一の城跡を指すとすると、問題になるのは城主の伝承である。
 『西備名区』によれば、浦崎村岩淵城の城主は佐藤与左衛門尉、昌岡壱岐守であったのに対し、城か端新城の方は、前に述べたように下見太郎左衛門であった。
 佐藤氏や昌岡氏が古く、下見氏が新しく来住して新城を築いたとしても良い。
 が、海賊城としての立地を持ったこの城は、「城か端」の名称に相応しいとは言えない。「城か端」の地名は各地に見られるもので、多くは在地領主の居館跡の周辺に残っている。
在地領主が存在したのは、備後地方では慶長五年(1600)の関が原合戦までである。当時多くの国人土豪は毛利氏の家臣となっており、毛利氏が関が原合戦で敗北することによって在地領主としての立場を失った。そして、一番問題なのは、この城は近世の干拓が行われるまでは島だったことである。小島の城館を城か端と呼ぶのは、余り例がないことである。やはり、この城の本来の呼称は「岩淵城」とするのが良いようである。
 「城か端」は「新城」が築かれる前に同じ場所に存在した在地領主の居館であった可能性のほうが高い。小学校が建設される前の地形を古い地図で見ると、同地の形状は、南端が一番高く、北に向かって両手を広げたような丘が伸びていたのが分る。これは典型的な中世武士の居館跡である。両手の間の谷間に館が築かれ、一朝有事には南端の丘の上に立て篭もる。新城は、この古い在地領主の居館跡を利用して築かれた城館と考えた方が良いだろう。

備陽史探訪の会
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop