びんご 古城散策・田口義之

◆城か端新城と下見氏
                                     (尾道市浦崎町) 〈175〉

城か端新城跡 (現尾道市浦崎小学校)
 いろんなガイドブックが揃った今日でも、地域の城跡を探すのは厄介なものである。一昔前なら、土地の人に聞けば、「あの山が城山じゃ…」と教えてくれたものだ。が、今は違う。地元に対する愛着や関心が薄れたのか、「〇〇城は何処ですか…」と聞いても、「はあ、こんなところにお城があったんですか…」と、反対に聞き返される始末だ。
 こんな時に、探索の手がかりになるのが地名である。城跡を探す場合、最初に手がかりとするのは、国土地理院が発行している5万分の一や2万5千分の1の地形図である。これらの地図で「城」の付く地名を探してみる。もし、そうした地名があれば、現地に行って地形を観察し、それらしい場所に行く。その際、現地の人から城に関連した話が聞ければしめたものである。行ってみる(登って見る)と曲輪や空堀の跡を発見することが出来るはずだ。
 備後地方では、城跡の存在する山を「じょうやま(城山)」と呼ぶのが一般的で、これから転じて「じょう」或いは「しろやま」「しらやま」と呼ばれる場合もある。漢字表記の地名はほとんど当て字で、「城(じょう)」が「場(じょう)」、城(しろ)が「白(しろ)」「志良(しら)」等と表記されている場合もあるから注意が必要である。
 今回紹介する城か端新城は、「城か端」「新城」と城に関係した地名が二つ重なった珍しい例である。
 福山からだと、赤坂から農免道路を通って金江に出る。突き当りを左折して県道47号線に入り、藤江で右折して県道389号線に入る。峠を越えると尾道市浦崎町で、平野に出たあたりで右を見ると丘の上に学校らしい建物が建っている。この丘が城か端新城の跡で、建物は尾道市立浦崎小学校だ。
 城跡は小学校の建設で完全に破壊され何も残っていない。ただ「新城」という地名が残っているのみである。
 城の存在した時代の地形を復元すると、金江と浦崎の境界となっている低い丘陵の南端に築かれた城で、当時は北を除き周囲は海で、「海賊城」の性格を持っていた。特に、西側は今は陸続きとなった浦崎島との間の狭い水道で、海上交通の要所を占めていた。
 城主は下見氏と伝わっている。「西備名区」によると、戸崎の城主であった下見太郎行治の次男、下見太郎左衛門行広が天文年中(1532~1555)ここに新たに城を築いて分家し、城か端新城と号したという。
 下見氏は室町時代以来各種の史料に頻出する備後の武将である。十五世紀の中頃、下見加賀守は備後守護山名氏の有力被官として、大田庄の桑原方代官となり、同所の鳶か丸城に居城した。福山周辺でも文明六年(1474)、下見小三郎高綱が神村庄(福山市神村町)の代官となっており、その活躍が確認できる。更に、慶長五年(1600)九月九日、関が原合戦の前哨戦であった「尾張野間内海」の合戦で毛利氏に従った下見太郎右衛門が自身と家来で首八を取っている。「左衛門」と「右衛門」の違いはあるが、この城か端新城の下見氏と見ていいだろう。

備陽史探訪の会
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