びんご 古城散策・田口義之

◆海老城と海老名氏
                                     (尾道市浦崎町) 〈174〉

「沖の観音」 海老城跡
 藁江城を訪ねた帰り、尾道市浦崎町を訪ねてみた。ここは旧沼隈郡ながら、昭和29年、合併によって旧松永市が誕生する際、松永との合併よりも対岸の尾道市と合併することを選んだ。今となっては間違った選択のようにも思えるが、古老に聞くと、当時は陸路よりも海路が便利で、この合併もあながちおかしい選択ではなかったと言う。
 行政が違うと、道路の整備状況も違うようで、県道389号線は尾道市に入るととたんに狭くなる。峠を越えると右に新しい道がついている。戸崎に行くにはこの道を通ってもいいし、更に1キロほど進んで、吉岡ストアーの少し先を右折して堤防上の道路を西に行ってもいい。
 浦崎は、二つの島が江戸時代以降の干拓事業によって繋がり、半島状の地形になったもので、水野氏の時代までは「戸崎村」といい、浦崎新田の造成によって耕地面積が倍増、「浦崎村」となった。
 南側の道を西に進むと、沖合いに小さな小島の上にお城の櫓のような建物が建っているのが見えてくる。有名な「沖の観音」だ。水野氏の創建と伝わるお堂で、潮が引くと砂洲で陸とつながり、参拝できる。
 更に進むと、小さな峠を越え、下ると正面に小さな岬が見えてくる。これが海老城の跡である。
当初、県の城館調査報告書の記載を信じて、遺構はないものと思い込んでいた。ところが、この度、藁江城からの帰り道、念のために訪ねてみると、かすかではあるが城跡を確認することが出来た。
 確かに、城跡は海岸に設けられた新しい舗装道路によって半分に断ち切られて見る影もない。だが、よく見ると往時の面影を想像することができた。
城跡の汀にのこる「船隠し」
 周辺の地形を観察すると、海老城は陸繋島を利用して築かれた「海賊城」である。曲輪は南北に二箇所設けられていたようで、南に設けられた曲輪跡は墓地となりながらもかろうじて確認することが出来る。一段低く、北に設けらた曲輪は道路の建設によって破壊され、北端のみが残っている。現在、この北の曲輪跡には「城山大師堂」が建てられ、かつてここに城があったことを伝えている。
 南の曲輪跡の下の汀には、人工的に加工された痕跡のある海蝕洞が見られる。「船隠し」の跡に違いない。
 遺芳湾と呼ばれる松永湾は、それ自体は大した地政学上の価値はない。しかし、隣の尾道、鞆との関係で見ると、大変重要な位置を占めている。尾道港を利用する船舶は、浦崎と向島の狭い海峡を通過する必要があった。前に紹介した戸崎城や今回紹介した海老城が築かれた理由だ。この地に立つと横島、百島に挟まれた水道は一望の下である。戦国期にはここに「警固衆」と呼ばれた海賊がいて、沖行く船を監視していたはずだ。
 城主については、「西備名区」に海老名三河守氏任、同五郎左衛門義任の名があるが詳細は不明である。ただ、海賊の本場伊予(愛媛県)の出身と言うことに一片の真実が含まれているのかもしれない。

備陽史探訪の会
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