びんご 古城散策・田口義之

◆藁江城と藁江氏
                                  (福山市金江町) 〈173〉

北より望む藁江城
 福山市の金江町には、以前紹介した赤柴山城以外にも、もう一つ山城跡が知られている。同町藁江の藁江城がそれだ。
 城跡は、かつて入海が深く入り込んでいた藁江の谷間の奥まったところに存在する。赤坂から金江に越える農免道路と平行して南側に昔からの往還が走っている。この旧道を金江小学校のところから東に進むと金見八幡社の丘を過ぎたところから右手にやや広い谷間が広がっている。幸田の集落だ。城はこの谷間を二つに割るように東から突き出た山頂に築かれている。比高は70メートルばかり、北に金江から熊野に越す旧道が通っており、城はこの往還を意識して築かれたことが分る。
 山頂近くに、小さなお堂が建ち、城に上るにはこの道を利用する。私がはじめてこの城に登ったのは5年ほど前のことだが、地元の方の案内でやっと上ることが出来た。
 かつては山頂近くまで耕作されていたらしく、曲輪の跡とも畑の跡ともとれる平坦地が続き、城郭の跡との見分けは難しい。山頂の本丸跡は二〇メートルに10メートルほどの平坦地で、東側に幅20メートルほどの堀切跡が残っている。曲輪跡と考えられる削平地は北東に延びる尾根上に多く見られ、熊野越えの道を意識して築かれた城であることを確認できる。
 城主は藁江氏と伝わっている。
「西備名区」はこの城と、北にそびえる赤柴山城との関係について面白い伝承を記録している。同書によると、赤柴山城にいた藁江九郎左衛門繁義は、応永五年(一三九八)、同城を渡辺源左衛門尉春綱に譲って、藁江城に入り、同十七年(一四一〇)、渡辺氏が山田(福山市熊野町)に帰ったので、再び赤柴山城に帰ったと言う。
 応永五年とか同十七年とか、具体的な年代が、果たしてどれだけ真実を伝えているかは分らない。だが、この伝承が山田(熊野町)との関係で語られていることは注目して良い。
 先に述べたように、この山城は北麓を東西に走る金江から熊野に通ずる道を意識して築かれている。この道は戦国時代、西国街道(旧山陽道)から当時重要な港湾であった鞆に通ずる街道として使われた重要な道であった。
 鞆は、内海水運の重要な港町であったが陸側から見れば岬に孤立した「陸の孤島」であった。そのため古くは草戸千軒や藁江港のような、中小の港湾集落が鞆と内陸部を結ぶ中継地として繁栄した。ところが、これらの(特に草戸千軒)港は一六世紀の初頭に姿を消す(草土千軒町遺跡発掘調査報告書など)。西国街道と鞆を結ぶ陸路が開発された為だ。天正三年(一五七五)四月二日、鹿児島の島津家久は今津(福山市今津町)を打ち立ち、山田の町と山田城下を通って鞆に入った。今津から柳津を通り、藁江城下を通るこの道こそ「鞆街道」と見ていい。
 藁江氏の素性は宮氏の一族と言うだけで判然としない。宮氏は戦国初頭まで熊野盆地を支配していた。藁江氏はその一族で、鞆街道を押さえるためにこの地に配された、と考えて良いだろう。 

備陽史探訪の会
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