びんご 古城散策・田口義之

◆小森館と横山氏  (2)
                                  (福山市津之郷町) 〈172〉

小森館付近(現在地表には何の痕跡もない)
 かつての小森館の様子は、江戸時代後期の『備陽六郡志』によって知ることが出来る。
「当村の庄屋五郎右衛門は、横山備中守か末孫にて、尼子、毛利以前より此所(小堀〈モリ〉と云所也)に住するよし。大なる屋敷にはあらねと、四辺に堀を構へ、古木枝聳、竹薮繁り合て、古き住家と見へたり。宗休公(水野勝成)初めて御入国の砌、曽祖父五郎右衛門、御目鏡を以って庄屋に仰せ付けられ、舎弟惣右衛門(横山喜藤太曽祖父にて、横山紋右衛門、津田友之丞か先祖也)弐百石賜り、御家人に召し出さる。これによって代々の伝書其の外持ち伝えたる物とも惣右衛門方へ遣わし、古き書状など、僅かに所持はべる…」(同書外編分郡之一 津之郷村の条)
 堀を廻らせた土豪屋敷の様子を、髣髴とさせてくれる記述だが、昭和四十五年七月から翌年三月にかけて行なわれた発掘調査によってもこのことは確認されている。
 発掘は山陽新幹線建設の事前調査として実施されたもので、六郡志の記述通り、堀の跡や土塁の跡、石垣などが発掘された。それによると、往時の規模は東西百メートル、南北八十メートルの規模を持つ方形居館で、四辺を取り巻く堀の幅は十メートルから一五メートル、深さは二メートルを測る本格的なものであった。残念なことに、既に館跡の南側部分は明治時代の山陽鉄道の敷設によって破壊され、明かに出来なかった。
小森館付近から望む銀山城跡
 遺物は、中世末の土師器や陶器、近世の陶磁器が大量に出土し、この地が伝承通り、横山氏の居館として、戦国時代以来永く使用されたことを裏付けた。
 八十メートルから百メートル四方の居館はこの地方では大規模なものである。草戸千軒町遺跡で発掘された方形居館、神辺町御領の「堀館跡」がほぼ一町四方で小森館に匹敵する。草戸千軒の方形居館は守護に関係する居館跡と考えられているから、小森の館も或いは横山氏以前、守護やそれに匹敵する有力国人の居館として使われていたのかもしれない。
 現地名の「小森」が六郡志では「小堀」と表記し、「堀」に「モリ」のフリガナを振ってあることには注意を要する。
 「小堀」は多く「こほり」と読み、「こおり」の転訛だと言われている。「こおり」は郡を意味する古語で、古代律令制下の郡の役所「郡家(ころりのみやけ)」が置かれていた場所に多く見られる地名だ。備後国でも甲奴郡に「小堀」(府中市上下町)、神石郡に「郡村」(神石高原町福永)があり、何れも甲奴郡、神石郡の郡家があった場所と考えられている。毛利氏の居城として有名な郡山(こおりやま)もここから来た地名で、こちらは発掘によって城下に郡家があったことが確認されている。
 津之郷の小森も旧沼隈郡の郡家が置かれた場所としては格好の場所である。背後に夕倉の丘を負い、前面には静かな入海が港としての役目を果たす。西方の山際には和光寺の甍が朝日に映える…。現に小森館から西に五百メートルのザブ田遺跡からは、「役所」の存在を暗示する奈良時代の緑釉陶器が多数出土している(山陽新幹線建設地内発掘調査報告)。小森の地名が、「郡家」の存在を示すものであるかどうかの検証はこれからだ。 
【筆者注】小堀の「堀」に「モリ」のフリガナがふってある)

備陽史探訪の会
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