びんご 古城散策・田口義之

◆小森館と横山氏
                                  (福山市津之郷町) 〈171〉

神石高原町地図
 戦国時代以来、沼隈郡津之郷村(現福山市津之郷町)小森に居住した横山氏は、神石郡草木村(現神石高原町)楢原山城にいた横山長左衛門尉隆国が、天文三年(一五三四)、この地に移ってきたのがその始まりだと云う(西備名区など)。
 確かに、小森館は、堀に囲まれた典型的な中世武士の居館跡で、発掘によってその起源が戦国期に遡ることが確認されている(山陽新幹線建設地内遺跡発掘調査報告)。
 しかしながら、神石郡北部の土豪が、なぜ備後南部の沼隈郡に移住することになったのかなど未解明の部分も多い。
 前回述べたように、神石郡北部の横山氏は、戦国期には奴可郡久代から出て、西条(庄原市西城町)大富山城主となり、備北有数の国人となった久代宮氏の重臣となっていた。『芸藩通志』などによると、永禄の頃(一五六〇前後か)、出雲尼子氏の軍勢が久代宮氏の大富山城を攻めた時、「宮氏属兵を出して、防ぎ戦ひ、奥宮豊後、横山長門、同河内等が、弓力に敗られて、」出雲に逃げ帰ったという(同書巻百二十備後国奴可郡城虚宅址古戦場附)。
 横山長門については、他に知見はないが、同河内は楢原山城主と伝わる横山河内守義隆のことである。
福山市津之郷界隈
 『西備名区』等では、義隆を津之郷に移った隆国の次の楢原山城主に挙げ、孫に当たる清兵衛が久代宮氏の家臣で、久代河内(庄原市東城町)の城代であった高尾新介の養子となったする。依然として楢原山城に拠り、久代宮氏の重臣として活躍していた、と推定して誤りなかろう。
 だが、時は乱世である。現代人のように簡単に神石から沼隈に引っ越すことが出来たのであろうか…。
 結論を言えば、この前後の横山氏の系譜には混乱が見られ、津之郷に移ったという隆国は横山氏の惣領ではなく、庶子であったと考えられる。庶子ならば他の国人大名の被官となり、他所に知行を得て、居所を移すことも可能だ。
 その場合、隆国は小森の北方にそびえる銀山城主杉原氏の家臣となり、小森に知行を与えられ館を構えた、とするのが妥当だろう。
 銀山城の杉原氏は、大永年間(一五二一~一五二七)、木梨杉原氏の一派、杉原播磨守匡信が木梨(尾道市木ノ庄町)の家城から山手の銀山城に本拠を移したものである。以後、同城を本拠に次第に勢力を強め、播磨守盛重の代に神辺城主となり、備後南部最強の国人となった。『横山家文書』を見ると、隆国の後裔と考えられる横山備中守、同備前守が盛重の重臣として活躍していることが見て取れ、それは隆国以来の主従関係と見ていいだろう。
 猶、『備後古城記』等に山手村古城主として「庄三郎元近」が挙げられ、これを矢不立城(神石高原町相度)のところで論証したように、「宮少輔三郎元親」と同一人物と見て良いとすると、別の解釈も可能である。元親の所領が津之郷付近にもあって、横山隆国はその代官としてこの地に移住。後に銀山城主に仕えてその重臣となった、と考えるのだ。

備陽史探訪の会
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop