びんご 古城散策・田口義之

◆楢原山城と横山氏
                                  (神石高原町草木) 〈170〉

 横山氏が二子山城から移ったとされる楢原山城跡は、6キロ南の神石高原町大字草木に位置する。
 神石高原町の大字草木は忘れられたような山里である。福山から帝釈峡方面には、東西に新しい道路が開通し便利になったが、草木はどちらのルートからも外れた位置にある。
 国道182号線からだと、「油木高入口」の交差点を左折する。約4キロ断崖上の道を進むと、長者原の集落に出る。城は長者原の八幡神社を起点にして丁度1キロ西方に位置する。道が左に大きくカーブして、更に右にカーブする辺りから右前方に黒々とした山塊がのしかかるように迫ってくる、楢原山城跡だ。
 山全体を見渡すには、西方の大字牧方面からの道をお勧めする。県道25号線から牧郵便局の前で県道412号(牧油木)線に入り、道なりに進むと3キロで草木に入る。左手に横山氏の菩提寺宝泉寺が見え、5百メートル進むと、正面に秀麗な城山が見えてくる。
 登山道は東にある。登って行くと、最初に井戸曲輪に到着する。100坪ほどの平坦地で、登山道が取り付くところに井戸跡が残っている。本丸は、この曲輪から更に2段登ったところにある。長径30メートルほどのおむすび形の平坦地で、周囲に幅5メートル前後の帯曲輪を廻らせている。城の「尾首」は北西の方向で、本丸から一段下がって長さ30メートル幅10メートルほどの曲輪を築き、その先は2本の堀切で尾根続きを断っている。本丸の南にも2段になった曲輪を築き、「尾崎」の守りとしている。尾根の先端部を利用した典型的な戦国山城で、二子山城よりもしっかりした造りで切岸もはっきり残っている。
 『西備名区』によると、この城は一名「和田山城」とも呼び、二子山城主横山河内守時隆(義隆)が築き、二子山からここに居城を移したという。
 横山氏の系図などでは、楢原山築城の理由を「二子山水無き為」とするが如何であろうか…。それよりも楢原山城の位置に注目したい。
 城は高梁川の上流福枡川の屈曲点を押さえる位置に築かれている。福桝川はやがて帝釈川と合流して成羽川となり、本流の高梁川と合流する。当時、河川を利用した交通がどれほど発展していたか定かでないが、下流の新成羽ダムの辺りまでは「笠神の文字岩」によって、鎌倉末期には川舟の航路が開鑿されていたことが分っている。この辺りまで河川が交通路として利用されていたと見て良いだろう。楢原山城はこの河川交通の押さえとして築かれたのだ。
 更に、横山氏が単独で築城したとするよりも、久代宮氏が南方への進出拠点として築き、同氏の重臣であった横山氏が城代として配されたとした方が良いだろう。


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