びんご 古城散策・田口義之

◆二子山城と横山氏
                                  (神石高原町永野) 〈169〉

帝釈峡堰堤  二子山城跡の近く
 帝釈峡の中心地の一つ、犬瀬から県道を南に進むと、やがて永野の集落に出る。その途中、右手(西)を眺めると二つの山頂を持つ山が悠然とそびえている。中世、横山氏が城を構えたという二子山だ。
 金山組というかつて「永野鉱山」で栄えたところから右手に道を取ると、城山の麓まで車で行ける。以前は、城跡のすぐ麓まで耕作され、山上は牛の放牧地となって簡単に登ることが出来たが、今は耕地は荒れ、登るには藪漕ぎを覚悟しなければならない。
 「二子」の名称の通り、山頂は南北二つに分れ、それぞれに山城の遺構を残している。北の山頂が標高631メートルの主峰で、30メートル四方の曲輪跡と周辺に2段ほどの腰曲輪が残っている。南の山頂もほぼ同様の造りである。二つの山頂の間もある程度平に均され、一朝有事には曲輪として利用されたものと推定される。その他、曲輪の跡と思われる平坦地は南側の山頂から東南に延びた尾根上にも存在し、こちらは比丘尼屋敷の名が伝わり、城に関連した庵寺があったとされている。
 城主横山氏は、武蔵七党の一つにかぞえられる関東武士の名門で、建保元年(一二一三)の「和田合戦」で和田義盛に味方し敗れ、この地に逃れてきたと云う。系図によると、この地に来たのは、和田合戦に敗れた重兼の子重忠で、3人の子がそれぞれ三坂(庄原市東城町)、永野(神石高原町)、江草(同)に土着し、三坂氏、永野氏、江草氏の祖となったという。二子山城に拠ったのは次男の重望の系統で、以後在名を取って「永野」氏を称した。
横山氏の拠った二子山城跡
 重望の曾孫忠義は永野兵部太夫を称し、近隣に威を振るったが、備中の細川天竺上野介の攻撃を受け、撃退したが追撃の途中討死した(『神石郡誌』)。忠義主従を葬ったのが永野と高光の境にある「八つ塚」だという。
 忠義の子亀松丸はこの時七歳であったが、久代宮氏の「取立て」によって一人前の武将となり、一門の力を結集して再び二子山城主に返り咲いたという。この時、久代宮氏の庇護を受けたことから、以後同氏の重臣として活躍した(『芸藩通志』『久代記』など)。
 二子山城主の菩提寺法光寺の過去帳等によると、九代義国は延徳元年(一四八九)九月に没し、十代義隆は、二子山城から南6キロの草木楢原山に新しく築城して本拠を移し、天文十五年(一五四六)七月に亡くなった。楢原山に城を移した理由は、二子山には水が乏しく籠城に不便だったからという。義隆は楢原山に本拠を移すと共に「横山」氏に復した。そして、この義隆の子が沼隈郡津之郷村に小森城を築いて移り、備南横山氏の祖となった長左衛門尉隆国であった。
 二子山城は横山(永野)氏が楢原山城に移って以後も久代宮氏の出城として利用された。最後の城主を宮左衛門尉元安と伝える。

備陽史探訪の会
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