びんご 古城散策・田口義之

◆高光馬場城と高光宮氏(九)
                                  (神石高原町高光) 〈168〉

宍戸隆家の墓(安芸高田市甲田町)
 馬場城と高光宮氏の終焉は判然としない。
 最後に残された史料は、度々引用した、年不詳二月十二日付宍戸隆家書状(山口県文書館蔵「譜録岡六郎兵衛」県史古代中世資料編Ⅴ所収)である。

誠にこの度元親御覚悟なきの儀に就いて、黒岩に至り各差集られ、我等番衆進置べきの通、御方並びに岡伯耆守方を以って示し預かり候、惣別の儀は斟酌多く候と雖も、輝元へ御別儀無きの辻を以って承り候間、ご返事申し候、然らば此方番衆黒岩へ差籠め候に於いては、高光少輔次郎衆その外御家中衆、何れも城内一人も残し置かれず下城なされ、某番衆を差し籠めらるべきの由、御神文を以って承り候条、其の辻に任せ佐々部美作守人数相副え差し籠め候、右の趣相違なきの様に御裁判肝要に候、然らばこの度御在城の方々少しも御難渋なく御下城に於いては何れもご進退の儀、残りなく御気仕無きの様に裁判致すべく候、此の旨偽るに於いては
日本国大小神祇御照覧候へ、御別儀あるべからず候、併しながら其元の方々ご進退裁判すべく候、御心安かるべく候、猶両三人申すべく候、恐々謹言
 二月十二日  隆家 判
「高光右衛門大夫殿
 岡伯耆守殿  宍戸隆家」
 宍戸隆家は毛利元就の娘婿で安芸五龍城主、天正二十年(一五九二)二月五日に没しているから、それ以前、おそらく天正初年のものである。内容は、度々紹介したように(宮)元親の「御覚悟なき」によって、家中衆が離反し、黒岩城に集結し宍戸隆家の指示を仰いだこと、それに対して隆家は高光少輔次郎衆他家中衆が全て下城するなら宍戸氏の軍勢を黒岩へ派遣すること。毛利氏に対しては「別儀」は無いとの事なので下城した元親の家中衆の進退は隆家が保障する。などを彼等と宍戸隆家の間の仲介役を務めた、高光右衛門大夫と岡伯耆守に伝えたものである。
 この備北の天地を揺るがせた一大事件に関しては、他に確たる史料はない。
 文意からして、高光少輔次郎衆というのは元親の家臣ではなく、高光宮氏の一門、或いは当主と考えられる高光右衛門大夫の子息であろうか。
 宍戸氏が家臣の佐々部美作守を派遣したのは事実で、以後一帯は宍戸氏の支配下に入った。天正十九年(一五九一)の惣国検地の結果を示す「毛利家八ヶ国時代分限帳」を見ると、佐々部善左衛門、同又右衛門が神石郡に知行地を持っている。隆家の命で黒岩に入城した佐々部美作守の一門と見て良いだろう。
 同分限帳に高光宮氏の名はない。所領を没収され没落したか、或いは宍戸氏(または山内氏)の家中に吸収され、国人領主としての活動に幕を閉じたものだろう。高光馬場城も同氏と運命を共にし、廃城の道を辿ったはずだ。

備陽史探訪の会
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