びんご 古城散策・田口義之

◆高光馬場城と高光宮氏(八)
                                  (神石高原町高光) 〈167〉

杉林の中に残る曲輪跡
 一難去って又一難と言うか、天文二十一年から二十三年にかけては、高光宮氏にとっては大変な年であった。尼子に味方して軍勢を迎え入れたかと思うと、今度は山内氏の尖兵として久代宮氏の兵と干戈を交えた。
 これらの合戦によるものであろうか、『神石郡誌』は、天文二十三年(一五五四)二月四日、宮高光左衛門尉、同武蔵守の死去を、同年五月四日には宮五郎左衛門の討死を伝えている。中でも、五郎左衛門は尼子毛利の合戦の最中、赤髭馬にまたがり勇壮に戦ったが、馬場城下の畑で長豌豆の蔓が馬の足にからまり、共に倒れて遂に討ち取られたという。
 天文二十三年の合戦は、久代宮氏との戦いであったから、合戦の相手を間違えて伝えたか、或いは尼子毛利の激しい戦いのあった前年(一五五三)の戦いの様子を伝えたものであろう。
 これらの合戦の被害は郡誌が伝えるように甚大なものであった。連年の合戦で領内は荒らされ、人的被害も大きかった。
 永禄二年(一五五九)六月、篠津原合戦が行なわれ、毛利氏の仲裁によって、山内・久代両氏の講和が結ばれた。この講和によって高光宮氏の周辺もやっと平穏を取り戻した。高光宮氏の知行が問題となったのはこの頃のことである。
 高光宮氏の所領に関しては、天文二十二年(一五五三)一二月、山内隆通条書によって毛利氏の安堵を得たはずであった(山内首藤家文書二一六号)。
 だが、この安堵は直ちに有効なものとはならなかった。毛利氏は山内氏に対して和平工作を行なうと同時に久代宮氏に対しても講和工作を行なっており、両者に色よい服属条件を出していたからだ(毛利家文書六六三号)。このため両者の主張は食い違い。結果として備北の天地を揺るがす篠津原合戦へと発展していった。
 高光宮氏は合戦が終わると、早速所領の安堵を山内氏を通じて毛利氏に願い出た。左の文書はその返書である(山内首藤家文書二二五号)。
 高光方申し分けらる儀に就いて、隆通より申し越さるるの趣、仰せを蒙り候、承知せしめ候、旨儀に於いては、具さに奥若江申し候、何れも然るべき様仰せ遣わされ候て給うべく候、委細此方口上に任せ候 恐々謹言
 卯月二七日  輝元(花押)
        元就(花押)
 隆家 御返報

 元就が輝元と連署で出した書状なので、輝元が元服した永禄八年(一五六五)から元就の死去した元亀二年(一五七一)までのもの。高光宮氏の要望は山内隆通を通じて宍戸隆家に提出され、さらに隆家から毛利氏に披露され、毛利氏の返答もその逆のルートで高光宮氏の下にもたらされたことがわかる。
 「奥若」とは、久代宮氏の重臣奥宮若狭守のことか。とすれば、高光宮氏の所領の一部が久代宮氏の重臣のものとなっており、毛利氏が「高光方」の要求を受け入れるためには、久代宮氏側を納得させなければならなかった。当時の国衆間の「取操り」の難しさである。

備陽史探訪の会
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