びんご 古城散策・田口義之

◆高光馬場城と高光宮氏(七)
                                  (神石高原町高光) 〈166〉

山内氏の居城、甲山城跡 (庄原市本郷)
 天文二十一年(一五二二)夏の、福永(神石高原町福永)に対する尼子氏の攻勢は失敗の終わった(第一次福永合戦)。大内氏から備後内陸部の支配を任されていた毛利元就が安芸の国人衆を率いて、防戦にあたり、同年十月二十六日、遂にこれを撃退したのであった(山口県文書館所蔵文書「贈村山家返章」)。
 尼子氏の攻勢は翌年も続いた。翌天文二十二年(一五五三)四月、毛利氏の居城吉田郡山城からわずか20キロ東方の備後旗返城の江田隆蓮が、山内隆通の誘いによって尼子に寝返り、ここに備北の天地を揺るがす一大合戦の幕が切って落とされた。
 江田隆連の「現形(げぎょう)」(裏切り)の影響は神石郡北部にもたちまち現れた。
 東城を経由して高光に進出した尼子勢は再び福永要害を攻撃(第二次福永合戦)。同年十月まで城を死守する毛利勢と攻撃する尼子勢との一進一退の血みどろの戦闘が続いた。
 福永要害(神石高原町福永)が攻防の舞台となったのは、ここが備北の交通の要衝であったとともに、尼子と毛利両陣営の勢力の狭間にあったからである。
 高光宮氏はこの戦いで山内氏とともに尼子に組していた。味方の軍勢とは言え、尼子氏の兵が領内を通過したり、在陣したりすることは苦痛であった。戦場での雑兵の狼藉は普通のことであったし、兵糧も提供しなければならない。敵方であった毛利方の兵も、高光辺りまで出没したはずだ。合戦後の天文二十三年(一五五四)、高光宮氏は領内の清丸山八幡宮の社殿を再興している(水野記)。この合戦で領内も戦火に合ったと見て良いだろう。
 天文二十二年の備北の動乱は、毛利氏優位の内に終息した。六月、泉の荻が瀬(庄原市口和町)で対陣した尼子・毛利の軍勢は、尼子氏の敗北に終わった。尼子氏が積極的な攻勢に出ないのを見た毛利元就は、七月二十三日江田氏の端城高杉城(三次市神杉町)を攻略。江田隆連は十月まで旗返に籠城したが、尼子の救援は届かず、十月、遂に城を捨てて逃亡した。
 尼子氏の敗北によって、備後国人衆のほとんどは毛利氏に属すこととなった。ここに応仁の乱以来、80年に及んだ備後の戦乱は実質的に終わった。
 毛利氏の戦後処理の課題は、最後まで尼子氏に味方した山内氏、久代宮氏を如何に処遇するかにあった。両氏は対立関係にあり、その処理を一歩間違えば再び合戦が勃発する可能性があった。
 この難題を毛利氏は、元就・隆元父子がそれぞれ山内、久代氏を「取操(とりあやつ)る」ことで実現した。しかし、これは根本的な解決にならなかった。両氏とも毛利氏の出した条件を自分に都合よく解釈しており、これがすでに紹介した天文二十三年の「新免合戦」、更には永禄二年(一五五九)の有名な「篠津原合戦」へと続く端緒となったのである。

備陽史探訪の会
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