びんご 古城散策・田口義之

◆高光馬場城と高光宮氏(六)
                                  (神石高原町高光) 〈165〉

永野銅山の跡  (神石高原町永野)
 戦国山城は、独立した高い山頂ではなく、山頂から平野部に伸びた尾根上に築かれることが多い。平野に臨んだ尾根の先端部に築くことは、領地を支配するために有利で、しかも、危急の場合、背後(搦め手という)から容易に脱出することも出来た。乱世は、命さえ全うできれば、再挙を図り、失地を回復することも可能だった。
 高光宮氏は、幕府奉公衆としての使命を終え、在地の国人として活動を始めた十五世紀末頃、本格的に馬場城を修築した、と見て良い。
 十五世紀末の高光宮氏の当主は、遠江守盛次であった。盛次は永正十七年(一五二〇)三月、安芸厳島神社に銭百貫文を寄進した記録がある(厳島五重塔銅札銘)。
 銭百貫文は、相当な金額である。当時、銭一貫文で米一石が買えた(もちろん相場の上下はあったが)。百貫文を米百石(15トン)とし、現在の米価に換算すると375万円(平成23年新潟産コシヒカリ)となる。現在でもたいした金額だが、物価の安かった当時、これは小村の年貢高に相当する。それを信心からとは言え、他国の神社に気前よく寄付する。高光宮氏は相当なお金持ちであった。
 高光宮氏の富強の源は「山」にあったと考えられる。当時、山は「金のなる木」であった。まず、森林資源が富をもたらす。乱世とは言え、築城や寺社の修築その他、材木の需要はいくらでもあった。また、一帯は中国山地の「たたら地帯」で、刀剣や鉄砲の原料として鉄の需要は高まりつつあった。その外「銅山」の存在も見逃せない。東隣の永野には戦後まで稼業していた永野銅山があった。鉱脈は高光にも延び、宮氏が採掘に関わっていた可能性もある。
 こうした天然資源が、わずか三十町の小領主に過ぎなかった高光宮氏を一人前の国人として戦国の表舞台に立たせたのである。
 嵐の前の静けさであった永正年間(一五〇四~一五二一)をを過ぎると、備後も戦乱の巷に投げ込まれた。特に、神石を含む備後北部には出雲の尼子氏の勢力が激しく侵入し、それを阻もうとした在地の国人や大内、毛利氏と激しい戦いが繰り広げられた。
 高光周辺が激しい戦場となったのは天文二十一年(一五五二)のことであった。
 この年、備後の国人衆に衝撃が走った。将軍義輝が出雲の尼子晴久に、備後など八カ国の守護職を与えたのである。
 影響はすぐ現れた。宮氏一族が尼子と結んで南下し、安那郡北山に志川滝山城を築き、失地回復をもくろんだ。宮氏の挙兵は毛利氏のすばやい対応によって押さえられたが、尼子の兵は東城を経由して、高光宮氏の本拠神石郡高光に進出、備後中央部の要衝福永を窺がった(山口県立文書館所蔵文書「贈村山家返章」(天文二十一)十一月四日付児玉就忠書状)。

備陽史探訪の会
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