びんご 古城散策・田口義之

◆高光馬場城と高光宮氏(五)
                                  (神石高原町高光) 〈164〉

清丸山八幡神社の拝殿 (旧本殿) に残る室町末期の木
 盛忠の跡を継いだと推定されるのは五郎左衛門盛秀である。
 長享元年(一四八七)九月、気鋭の青年将軍足利義尚は、命に背いた近江守護六角高頼追討の軍を発し、近江に出陣した。この軍の中に、宮平次郎、同近江守、同下野守と共に宮五郎左衛門盛秀の名もあった。幕府の権威は斜陽にあったとは言え、大乱後も生きていたのである。
 義尚の近江遠征は長享三年(一四八九)三月の彼の死去によって頓挫したが、跡を継いだ義材も引き続いて幕府権威の回復に熱心で、宮氏などの奉公衆も引き続き在京して将軍を支えていた。
 この時期の盛秀の動向は『蔭凉軒日録』で追うことができる。延徳二年(一四九〇)正月には、盛秀は遠江守に任官しており、同月二十三日の大御所足利義視(将軍義材の父)の「走衆」を勤めたのを初見として、以後、翌延徳三年(一四九一)七月まで、将軍の走衆として頻出する(『蔭凉軒日録』)。
 走衆とは、将軍の供を「徒立ち」で勤める者を言う。惣領の下野守政盛や庶子家でも惣領家を凌ぐ力を持っていた上野介家の宗兼が将軍の「供衆」として、騎馬で従っていたのと比べると、一段下の格式であった。
 それにしても数ある奉公衆の中から走衆として将軍の側に仕えることは大変名誉な事で、盛秀が将軍の信任を得ていたことを意味しよう。
 奉公衆の体制は、明応二年(一四九三)四月、幕府管領細川政元が将軍義材を廃し、清晃(後の義澄)を擁立した、いわゆる「明応の政変」によって崩壊する。管領細川氏の下剋上によって将軍は細川氏の傀儡と化し、奉公衆もそれぞれ国元に帰り、世の中は本格的な乱世へと突入する。
 高光宮氏が本格的に神石郡高光を本拠とした国人領主へと成長していったのもこの時期のことと考えられる。奉公衆として幕府に出仕していた時代は、国元と京都を往復して生活を送っていたのが、幕府権力の保護を失った代わりに、所領経営に集中することが出来た。奉公衆の中で、この波を乗り切った者が戦国領主として頭角を現すこととなった。
 奉公衆として在京していた宮氏一門も、この時期以後それぞれ本拠地に山城を構え、独自の道を歩んでいった。有地宮氏や久代宮氏、高光宮氏など、庶子家が「苗字」を名乗り始めたのもこの頃で、奉公方一番の宮平次郎家、四番の宮近江守家などのように土着に失敗して消えて行った家もあった。
 在地に帰った宮五郎左衛門家も所領の拡大を目指して活発に行動を開始した。神石郡南部の志摩利庄(現神石高原町小畑)は将軍料所として、伊勢氏が代官として支配していたが、その三名(延末・行里・重藤)は宮遠江又五郎が押領し、明応四年(一四九五)幕府は伊勢氏の訴えによって、その押領を停止するよう命じた(前田家所蔵文書)。
遠江又五郎は、父が遠江守であったことを示しており、盛秀の子息と見て間違いなかろう。

備陽史探訪の会
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