びんご 古城散策・田口義之

◆高光馬場城と高光宮氏(四)
                                  (神石高原町高光) 〈163〉

宮氏の菩提寺 安楽寺
 「襲名」とい言葉がある。今では歌舞伎役者の襲名ぐらいしか聞かないが、昔は家々にそれぞれ当主が名乗る名前があって、家を継ぐと云う事と「襲名」は同じ意味を持っていた。
 この慣習は古くからのものである。長男が太郎で次男が次郎は平安時代からあり、「通字」と言って、実名の一字に同じ漢字を使う習慣も現れた。中世に入るとこの習慣は益々厳格となり、幼名は竹千代、元服すると仮名次郎三郎、実名を元信(徳川家康の例である)と名乗るなど、それぞれの家で定められた決まりがあった。任官する官途名や受領名も家々で決められていた。管領細川家の当主は右京大夫、畠山家は修理大夫といった具合だ。
 この慣習は、今は滅亡してしまった家々の家系を復元するのに役に立つ。特に、幕府に出仕した高光宮氏のような家では有効である。幕府関係の記録で、その歴代の活動の様子を追うことが出来るからだ。
 幕府の記録で、高光宮氏の先祖と考えられるのは宮盛広である。盛広は応永十九年(一四一二)八月十五日、将軍義満の石清水八幡宮参詣の供侍の一人として登場し、以後永享二年(一四三〇)まで各種の記録に登場する(八幡社参記・花営三代記・普光院殿元服記)。
 但し、盛広の段階でこの宮氏が神石郡高光に本拠置いていたかどうかは判然としない。盛広は式部丞から三河守に任官しており、「五郎左衛門」を名乗ったことは確認できないからだ。
 盛広の子息と考えられるのは盛長で、この人物こそ「康正二年造内裏段銭並国役引付」に、神石郡高光郷の領主として登場する宮五郎左衛門である。その初見は「永享九年行幸記」で、永享九年(一四三七)十月の将軍義教参内の「布衣侍」の一人として名が見え、以後宝徳年間(一四四九~一四五二)まで各種の記録に散見する。
 注目されるのは永享・文安の各種「番帳」に見える宮五郎左衛門の所属番である。五組に分かれた奉公衆の中で、宮五郎左衛門尉(盛長)は惣領下野守と同じ五番に属し、その父と考えられる三河入道(盛広)が四番に所属することである。また、度々紹介する「康正二年造内裏段銭並国役引付」でも、五郎左衛門と並んで、宮式部丞が「備後国段銭」五貫文を幕府御倉に納めている。式部丞は盛長の父と考えられる盛広の官途であるから、或いは盛広の家督は別の人物(康正度の式部丞)が継ぎ、盛長は父から高光郷を与えられ別家を立てた人物かもしれない。
 惣領家と同じ奉公衆五番に属した宮五郎左衛門家は、惣領家と密接な関係を持っていた。応仁文明の乱で、惣領家が敗北し、惣領教元が幼少の嗣子(後の政盛)を残して自害して果てると、盛長の後を継いだと考えられる五三郎盛忠は惣領家を代表し、惣領家に次ぐ勢力を持った上野介家の政信と共に、「備後両宮」として宮氏の勢力を守るために奔走した(小早川家証文二〇二号、山内首藤家文書五六一号など)。

備陽史探訪の会
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