びんご 古城散策・田口義之

◆高光馬場城と高光宮氏(二)
                                  (神石高原町高光) 〈161〉

高光の清丸山八幡宮
 高光宮氏の本拠、神石高原町の高光は古くから開けた地である。高光馬場城の西南2キロの下郷には、現時点で備後最大の「辰口古墳」が存在する。低丘陵上に前方部を東南に向けて造られた全長74メートルの前方後円墳で、後円部の竪穴式石室は殆ど畿内の大古墳と変わらず、大和朝廷から直接この地に派遣された将軍の墓と推定されている。奈良時代には、隣接する福永に神石郡の郡家(郡の役所)が置かれ、以後、明治になってその地位を油木に譲るまで、郡の中心地として繁栄してきた。
 高光は、「和名抄」郷の「高市」が転訛した地名と考えられ、室町時代、宮五郎左衛門尉の所領として史上に登場する。
 すなわち、「康正二年造内裏段銭並国役引付」(群書類従)に、
一貫文 六月三日同二日定
 宮五郎左衛門殿
   備後国神石郡高光郷段銭
 とあるのがそれである。この記録は康正二年(一四五六)の内裏造営に際して、賦課された段銭を直接幕府の御倉正実坊に納めた者の名簿で、当時の幕府財政を知るうえで大変貴重なものである。
 この記録から分ることは、次の二点、康正二年の時点で神石郡高光郷を宮五郎左衛門が領していたこと、そして、同人が幕府奉公衆であったことである。
 記録の性質から宮五郎左衛門なるものが高光郷の領主であったことは論を待たないが、幕府奉公衆であったことについては少し説明しなければならない。
高光塔の元宝筐印塔
 町幕府は守護大名の連合政権であったといわれる。幕府は国々の支配を守護に一任することによって、全国政権たる実を得ようとした。それまで守護と同格であった地頭御家人は守護の指揮下に入り、段銭なども守護が一括して徴収して幕府に納めるのが例となっていた。ところがこれでは将軍が守護の傀儡となる恐れが出てきた。そこで、義満、義持、義教と続く歴代将軍は、鎌倉時代以来の足利家譜代の家人以外に、守護の庶流や各地の有力国人領主を奉公衆として組織することに意を注いだ。義教の時代には三百人から四百人の奉公衆を、五番に編成して将軍の親衛隊とする体制が確立された。彼等は、国許にあっても将軍直々の御家人としての矜持を持ち、守護の言うことを聞かなかった。もちろん、その所領は「守護不入」の特権を持ち、幕府から賦課される税金は守護の手を経ず、直接幕府御倉に納めた。「康正二年造内裏段銭並国役引付」は、その結果作成されたもので、それに名前が載っているということは、すなわち、その者が幕府奉公衆だったことを意味する。
 五郎左衛門が納入した一貫文は、宮氏の惣領下野守教元が納めた二十貫文と比較すると微細な金額に思えるが、反別百文、公田一丁分の段銭に当たり、隣の安芸国毛利氏の例(毛利家文書六五・八六号)を参考にすると、所領規模は三十町前後と推定できる。

備陽史探訪の会
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