びんご 古城散策・田口義之

◆高光馬場城と高光宮氏(一)
                                  (神石高原町高光) 〈160〉

高光馬場城跡(神石高原町高光)
 新免の取り合いで始まった高光宮氏と黒岩・久代の連合軍の合戦は、九月二十六日には久代から「物数千計」が出張り、高光宮氏自身、手勢三百ほど率いて出陣し、「上口」で「取り合い」槍に及んだ。情勢は高光側有利に運んだようで、久代勢を黒岩に押し詰めた高光勢は、黒岩で久代宮氏の重臣で「東城之城督」田辺与三郎、福田杢助を討ち取った。なお、福田杢助は本来宮氏の惣領家の家臣であったが、近年牢人して久代宮氏に仕官していた。いずれにしてもこの両人は久代方の「究竟之仁」で敵方の蒙った打撃は計り知れず、高光方は逃げる敵勢を追って五・六人討ち取り、敵方の手負いは数知れぬ有様であった(「萩藩閥閲録一〇四湯浅権兵衛書出、十月四日付山内隆通書状)。
 「上口」というのははっきりしないが、黒岩城のある永野から高光に越える山径上に「上組」があり、黒岩から押し出した久代・黒岩連合軍は、この辺りで迎え撃つ高光勢と合戦となったものだろう。
 黒岩城のところで述べたように、この情勢を見た山内隆通は手勢五十を加勢として高光に遣わした(同)。その後の様子は判然としないが、山内隆通は、もし久代方が「深々と仕懸」て来るようなら、こちらも「確と」加勢するする覚悟であると、味方の国人衆に伝えた(同)。
 高光宮氏が山内氏と結んで同一行動をとったことは他の史料でも確認できる。
 天文二十二年(一五五三)一二月四日、山内隆通は毛利氏に九か条の「条書」を提出、これを毛利氏が承認することを条件に同氏に従うことを申し入れた(山内首藤家文書二一六号)。
高光馬場城跡(高光郷の最近の風景
 その六条目に
「高光儀、我等同前の覚悟候条、先知行相違なく、御意を以って知行致すべき事」
 とあり、高光宮氏と山内氏が同盟関係にあったことが確認できる。
 更に、高光宮氏が山内氏と同盟関係にあったことから、宍戸氏との関係が生まれ、前に述べたように、宍戸氏が黒岩城を接収する際に、高光右衛門大夫にその旨を申し入れるという事態が生じた(萩藩譜録岡堅雄書出年不詳高光右衛門大夫宛宍戸隆家書状)。宍戸隆家の母は山内直通(隆通の祖父)の娘で、隆家自身も幼少期を山内家で過ごし、その関係から宍戸氏は山内氏と毛利氏間の「申し次」を勤めた(山内首藤家文書二八四号)。
 高光宮氏が、同じ宮氏の一族ながら久代宮氏に敵対し、山内しに味方したのには深い訳があった。それは、先に紹介した山内隆通条書の第一条に「宮家並びに東分小奴可その外、久代当時知行の儀、一所も残さず元就御扶持を以って知行致すべき事」とあるように、宮氏一門でありながら、久代宮氏が同族の所領を実力で奪って、備後有数の国人衆にのし上がったことによる。
 それは「下剋上」と言っても良く、高光馬場城に拠り、惣領宮下野守と共に幕府奉公衆として室町柳営に出仕した高光宮氏にとっては、我慢のならないことであった。

備陽史探訪の会
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