びんご 古城散策・田口義之

◆黒岩城と宮氏(2)
                                  (神石高原町永野) 〈159〉

神石高原町ながの村(元永野小学校)
 家中が主君に背き立て篭もったという黒岩城は、帝釈峡の絶景の中にそびえている。
 神龍湖の中心、犬瀬から県道を南に行くと、やがて永野の集落がある。廃校となった永野小学校は「永野村」として活用され、映画のロケ地にもなったりしてご存知の方も多いだろう。
 永野の中心「市場」から南に峠を越えたところに「和田」という在所がある。ここから左に道をとる。この道は途中で渓谷に分け入り、断崖を下ると「下帝釈」の絶景が広がっている。もちろん、途中から車の通行は不能で、夏場のハイカーや渓流釣を楽しむ者しか利用しない。
 この道は数キロに及ぶ「下帝釈」の中で、唯一つ、対岸に通ずる小径で、或いは城が機能していた時代からのものかもしれない。
 城は、この小径が帝釈川の河原に降りる断崖の南の尾根上に存在する。但し、現在道らしい道は無い。私もかつて何度か城跡の踏査を試みたが、数々の障害に出合って未だ望みを達していない。。
 県の中世城館遺跡総合調査報告書や昭和58年の神石町山城分布調査書によると、城の遺構は良好に残っているらしい。
 それらの報告によると、城は和田集落から東に伸びた稜線が帝釈川に臨む断崖上を空堀で断ち切り、数段の曲輪を築いた単純な構造で、それぞれの曲輪は比較的大きく、中には切岸に石垣を築いたものもあるらしい。圧巻は背後の堀切で、天然の岩盤を利用し、今でも橋でもかけないと通行不能の険しさだという(和田嘉郎「日本城郭全集」12)。
黒岩城址の西北、永野に残る戦国時代の石塔
 帝釈川とその支流岩屋谷川の合流点に位置し、北・東・南は絶壁という正に天然の要害と呼ぶに相応しい山城である。
 城主宮氏のことを「高宮」と表記する書物があるのには一考を要する。高宮を「高光」の誤記とすれば、城主宮氏はこの城から西方6キロの、大字高光を本拠とした高光宮氏の一族と言うことになるが、「高宮」の表記が正しいとすると、別の考察が必要である。
 高宮の「高」は、中世「高郷」或いは「高庄」と呼ばれた地域(現庄原市高町)名に由来する可能性がある。高には室町後期、「宮高方」と呼ばれた宮氏の一族がおり、西方の山内氏と在地の支配をめぐって度々争った(山内首藤家文書など)。宮高氏(高の宮氏)と山内氏の高郷をめぐる争いは、やがて久代宮氏の介入によって同氏と山内氏の対立となり、天文末年の「新免合戦」から永禄二年(1559)の篠津原合戦へと発展していった。
 矢不立城や黒岩城に拠った宮氏(高宮氏)は、この高郷を名字の地とした「宮高」氏の一族、或いは後裔であったのではなかろうか…。
 そうすると、天文末年からはじまった久代宮氏と山内氏の合戦は、そもそも高の宮氏をその本領の地「高郷」に復帰させることを名分に戦われたのであり、合戦が当初高宮氏の居城矢不立・黒岩周辺で行なわれたのも、それを防ごうとした山内氏の先制攻撃であったと理解できる。

備陽史探訪の会
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