びんご 古城散策・田口義之

◆黒岩城と宮氏
                                  (神石高原町永野) 〈158〉

西南の岩屋谷川方面から見た黒岩城址 (↓の位置)
 田辺美作が討伐された事件は、後世まで語り草になったようで、異伝も多い。矢不立城の宮氏の家臣であった若林筑後も、前回紹介した記録では「討手」となっているが、『西備名区』の一説では、反対に討ち果たされたことになっている。すなわち、同書奴可郡始終村始終城の項に、
「天正年中田総氏の臣貞助某、高宮氏の臣若林筑後、久代の臣田辺美作守三人悪事ありて、毛利侯より神石郡福永の城主岡孫八郎に命ぜられ、未渡村広岡にて三人ともに成敗す」
とあり、それは備後北部の有力国人衆久代宮氏(本拠庄原市西城)、田総長井氏(同稲草)、高宮氏(本拠神石高原町相度・永野)の家臣たちが絡んだ一大事件であった。
 高宮氏とも呼ばれた神石郡北部、相度・永野一帯を本拠とした宮氏の居城は、矢不立城とするよりも、それより少し南の、やはり帝釈川の断崖上に築かれた黒岩城とした方がいいだろう。
 「黒岩」は、前回紹介した宍戸隆家書状(譜録岡六兵衛)や、年不詳十月四日付山内隆通書状(閥閲録一〇四湯浅権兵衛)に見え、同城が地方の重要拠点であったことが判明する。
 中でも、十月四日付山内隆通書状は注目される。この書状は、天文末年(一五五三頃)の山内氏と久代宮氏の合戦の最中に発せられたもので、当時の神石郡北部の情勢を伝えるものとして、貴重な存在である。
 下帝釈峡  黒岩城址の下から、約2キロぐらい下流に聳え立つ「弘法の滝」岩の麓は帝釈川が流れ、手前には一枚田(約四反) の田んぼがあります。
 それによると、天文二十二年末に勃発した久代宮氏と山内氏の「取合い」(毛利家文書六六三・六六四号)は、この地方では、久代宮氏と結ぶ黒岩城の宮氏と、山内氏と結んだ高光宮氏(本拠神石高原町高光)の代理戦争の様相を呈していた。
 最初に争奪の的となったのは、黒岩城から東北の神石郡新免(現東城町と神石高原町に分かれる)で、久代宮氏の支援を受けた黒岩城の宮氏は、九月二十五日(天文二三年と推定)ここに出兵、高光宮氏の軍勢と対峙した。位置的に見て、高光宮氏は黒岩城と久代宮氏の連絡を絶つため、先に陣取ったものと考えられる。
 高光宮氏の攻勢に久代宮氏側も対抗措置をとった。翌日、久代宮氏の本拠西城大富山城から千人の軍勢が繰り出し、「上口」で高光宮氏の軍勢と激しい合戦となった。高光側は三百と劣勢であったが良く戦い、黒岩城の前面で久代宮氏の重臣田辺与三郎、福田木工助その他を討ち取った。山内隆通はこの知らせを聞いて五十人の加勢を派遣し、さらに西城より「深々と仕懸候はば」「確と加勢致すべく覚悟」と味方国人衆に報じた。
 戦国期の地方に於ける小さな戦いの様子が、このように細かいところまで判明するのは驚くべきことだ。高光宮氏が山内氏に味方したことは「山内首藤家文書」でも確認され、当時一帯の諸城主が、山内方と久代方に分かれて凌ぎを削っていたことが分って、興味の尽きない文書である。

備陽史探訪の会
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