びんご 古城散策・田口義之

◆原城と野呂往還
                                  (福山市駅家町服部) 〈157〉

原城跡遠望
 福山市の北郊、駅家町服部本郷の奥まったところに、「原城」と呼ばれる中世の山城跡がある。
 そこは、備南の最高峰、蛇円山の東北、野々倉の谷を挟んで相対する標高四百五十メートルの峻険な山頂で、到底人の常住する場所ではない。
 岡田逸一著『服部の歴史』では、「源頼朝がこの地域を治めるために梶原景時と土肥実平に築かしめた」この地域で一番古い城という。
 近年刊行された『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』第3集によって、いままで茫漠としていたこの城の様子が明らかになってきた。それによると、城は3つの部分にわかれ、今まで「原城」とされていた場所は東南に突出した尾根に築かれた出丸で、城の中心は、「梶原屋敷」と呼ばれていた鉄塔の建つ山頂部にあったことが分かった。
 縄張り図を見ると、本丸(伝梶原屋敷)は三段の曲輪で構成され、西北の尾根続きは堀切で断ち切られている。原城と呼ばれる東南の出丸は、同じく三段の曲輪で構成され、本丸とで丸の間には連絡用の小さな曲輪が築かれている。
 山中の孤立した城郭に見えるが、生活の痕跡は比較的豊富である。『服部の歴史』によると、出丸(同書では本丸)には礎石や井戸もあり、本丸(梶原屋敷)からは、開墾にともなって石造五輪塔や土器の破片が掘り出されたという。
 遺跡から見る限り、鎌倉初期の築城という伝承は、承認しがたい。梶原、土肥氏は関東武士であって、「平場の合戦」は得意としていたが、峻険な山城を構え拠点とするというやり方は、彼等の後裔が鎌倉時代末期になってやっと会得した方法である。築城はずっと下って、室町時代の後期(十六世紀のはじめ)としていいだろう。
 梶原、土肥氏といった鎌倉武士の本拠として築かれたものでないとすると、築城目的は別にありそうである。
 その役割として考えられるのは、銅山の守護と、「野呂往還」と呼ばれた尾根道の確保である。銅山は、城山から服部川を挟んで東に位置する「鼠谷」にあった。起源ははっきりしないが、戦後まで採掘された記録があり、位置的に見て、城はこの銅山を意識して築かれたと見ていい。 
 また、「野呂往還」との関連も見逃せない。「野呂往還」は城跡北方の坂瀬川(神石高原町)から蛇円山の西肩をかすめて、新市町の柏に至る尾根道で、一説には原城から蛇円山を挟んで西に位置する「藤尾銀山」の銀を運んだ道とも言われている。
 一般的に、近世の往還が平野沿いに通っていたのに対し、中世は「尾根道」の時代と言われる。尾根道は手間隙のかかる橋梁を必要とせず、維持が容易であったからだ。
 城跡の西方に今は廃村となった野々倉がある。野呂往還を中心とした尾根道は、この野々倉で交わり、四方に通じていた。城は、この野呂往還を押さえる使命を負っていたと考えて良いだろう。野呂往還は、中世備後最大の勢力を誇った宮氏が南北の通路として利用した道であった。原城も宮氏が築き利用したと見て間違いあるまい。

備陽史探訪の会
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