びんご 古城散策・田口義之

◆石屋原城と杉原氏(2)
                                  (福山市新市町藤尾) 〈156〉

 入江氏に関しては、『西備名区』に委しい記述がある。それによると、入江大蔵少輔正高は府中八尾城主杉原石見守元康の家老で、天文、永禄の頃(十六世紀中葉)居城したとある。
 杉原元康は、山名理興の前の八尾城主で、同書の著者も「按ずるに」と考証しているように、元康の家老ならば正高の父か祖父に当たる人物であろう(理興は天文元年頃、八尾から神辺に移っている)。
 正高は実在の人物で、『陰徳太平記』などの軍記物語に、神辺城主杉原播磨守盛重に仕え、華々しい活躍を見せた武将である。
 圧巻は、天正六年(一五七八)の上月城の合戦であった。上月城に籠城した尼子勝久、山中鹿助など尼子の残党に対し、毛利は大軍を繰り出してこれを包囲攻撃、救援に向かった羽柴秀吉の軍勢とにらみ合いの合戦となった。この時、杉原盛重は「台無しの大筒」で上月城を砲撃、これをみた城方は足軽を出し、大筒を谷に「まくり」落とした。正高が登場するのはその後である。敵に大筒を奪われるのは末代の恥辱と、弟の左衛門進と一緒に尼子の兵を追いたて、大筒を山上の盛重の陣まで引き上げた。尼子の兵が6人がかりで持ち上げた大筒を兄弟二人で持ち上げたものだから敵味方の兵はその怪力ぶりに驚嘆した。
 『西備名区』は石屋原城の入江氏を、藤原鎌足の末裔で駿河国入江を名字の地とした入江時信の末葉としているが、誤りであろう。
 実は、入江氏の名字の地と考えられる「入江庄」は備後国神石郡にも存在した。『萩藩閥閲録』九十三に所収された、明徳三年(一三九二)二月十日付の将軍足利義満の袖判下文によると、備後国神石郡入江庄八百貫の地が、安芸国高田郡山県庄七百貫と共に、安芸の国人井上摂津守光純に宛がわれている。入江庄は備後にも存在し、石屋原城の入江氏の「名字の地」と見てよかろう。
 入江庄の故地ははっきりしないが、入江正高の居城と伝える山城は神石高原町の東北部、小野にも存在し、同地一帯が入江庄であった可能性がある。
 入江氏の素性では、『備陽六郡志』内編六、芦田郡藤尾村のところに、「古城壱箇所。城主杉原入江」とあるのには注意を要す。
 室町時代、石屋原城跡の西半分が位置する神石郡の父木野は杉原氏の所領として記録に登場する地であった。同地の法雲寺は、延文二年(一三五七)、杉原常源が夢窓国師の弟子玉岫和尚を招いて創建した禅宗の古刹で、全盛時には百貫の寺領を有していたという。更に、「康正二年(一四五六)造内裏段銭並国役引付」によると、備後国父木野四箇所分段銭九貫六百文を杉原美濃守が、幕府の御倉正実坊に納めている。納付義務者は所の領主であったから、美濃守が父木野の領主であったことは間違いない。 
 石屋原城主入江正高は、杉原常源や美濃守の後裔で、在名をとって「入江氏」を称したと見て良いだろう。
大石城跡を望む  (中央の山頂)

備陽史探訪の会
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