びんご 古城散策・田口義之

◆石屋原城と杉原氏
                                  (福山市新市町藤尾) 〈155〉

曲輪跡の様子が良く分かる伐採祖業後の石原屋城跡
      (現在はまた元の雑木林に戻っている)
 福山市の北郊、新市町の北部に藤尾と呼ばれる地域がある。かつては銀山で栄えたところだが、今は過疎化によって見る影もない。地域の西側は芦田川の支流神谷川が刻む深い渓谷となっていて、谷あいに神石高原に上る県道が北に伸びている。この県道は「板橋」で流れに沿って大きく西にカーブして神石郡に入る。その手前で左の路端に注目してもらいたい。境界の標識のそばに「石屋原城跡」の案内板が立っているはずだ。
 神石側からこの城跡を眺めると、県道をさえぎるように北に突き出た岩山で、いかにも山城を築くに相応しい山容をしている。
 この山城にはじめて登ったのは、40年近い昔のことである。松永の郷土史家藤井高一郎氏と一緒に神石高原町小畠の固屋城跡を訪ねた帰り道、説明板に惹かれて訪れたのが最初であった。
登って見ると、山頂は三段になり、石垣の跡も残っていた。規模はたいしたことなく、東西五〇㍍、南北七〇㍍、麓からの比高は七〇㍍といったところであろうか。
 これだけではありふれた山間の小城であったが、それが大規模な山城のごく一部であることがわかったのは、平成6年3月のことであった。
 丁度、その頃、備陽史探訪の会創立15周年を記念して福山地方の山城を紹介した「山城探訪」の発刊が計画され、石屋原城もこの本で照会することになり、会で再調査を実施した。調査担当者は当地出身の杉原道彦氏で、寒風を突いて山上をくまなく調査した。すると石屋原城と思われていた突端の丘の南に3本の空堀を挟んで「馬の洗い場」と呼ばれる曲輪があり、その南には幅10㍍に達する大規模な空堀があることが分かったのである。発見はこれだけではなかった。城跡の北側、神谷川を挟んで向かい合った山上には、「大石城」と呼ばれる大規模な山城の存在が杉原氏の調査で判明した(委しくは杉原道彦執筆「石屋原城跡」『山城探訪』を参照してもらいたい)。
 旧来の石屋原城跡、新たに確認された「馬の洗い場」、大石城跡は、地図で見ると、南北八百㍍の範囲に収まる。一つの山城と捉えたほうがいいだろう。
 その築城目的は神谷川沿いに上ってくる勢力の遮断と、南北に通ずる尾根道の確保である。特に尾根道の確保は重要である。原城のところでも述べたが、城が機能していた時代は「尾根道」の時代である。城は神谷川沿いの通路の遮断よりも、南北に通ずる尾根道が神谷川を渡る「渡河点」の確保を目的に築かれたと見ていい。
 城域が神石・芦田(現福山市)の二郡に亘っているところから、『備後古城記』などでは、それぞれの村で城主が書き上げられている。
「芦田郡藤尾村
 石屋原城
入江大蔵   」
「神石郡父木野村
入江大蔵正高
同 左衛門進  同弟
同 平内    同弟
入江兄弟杉原播磨守に随逐す。牢人の後備中国高屋村に住す。後深津郡藪路村に住。」
現在の石原屋城跡を望む

備陽史探訪の会
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