びんご 古城散策・田口義之

◆矢不立城と宮氏(2)
                                    (神石高原町相度) 〈154〉

帝釈峡神龍湖   中央の山が矢不立城址
 「矢不立」と書いて、「やたたづ」と読む。珍しい城名で、固有名詞とみて良いだろう。
 中世山城の「城名」はそれのみで、大きな研究テーマである。各地に残る山城の城名は、おおく土地の名を採って呼ばれるものだが、中には、この矢不立城のように、往時の城名を伝えたものと推定されるものもある。
 矢不立城のように、その城固有の城名と推定されるもので、同時代史料で裏付けの取れるものもには、左の様な例がある。
 三次市三若町の旗返山城。広沢江田氏の本城として知られる同城は、応仁の乱と戦国時代の天文二十二年(1553)の合戦で激しい戦場となり、「毛利家文書」や「平賀家文書」「湯浅家文書」、更には毛利氏関係の信頼できる覚書である「老翁物語」「二宮佐渡覚書」などに登場し、城が機能した時代以来、「旗返」が城名であったことが分かっている。また、江田氏の北に勢力を持った三吉氏の居城「比叡尾山城」も、「坪内文書」の発見によって、当時からそう呼ばれていたことが判明した。その他、木梨氏の鷲尾城(閥閲録四十一)、山内首藤氏の甲山(毛利家文書など)、宮氏の今大山(閥閲録五十七)・滝山城(毛利家文書他)などが同時代史料で確認できる。
 これらの城名は、「旗返」「比叡尾」「鷲尾」など、それなりに由緒のありそうな城名と、滝山、甲山など山名を城名にしたものに大きく二分出来る。矢不立城の場合は、前者に分類できそうである。
田辺美作が成敗されたという国広いに建つ広国院 (東城町未度)
 城名と共に、城主宮少輔(庄野)三郎元近も実在の人物である。
 理由は不明ながら、天正年間と推定される宍戸隆家の書状によると、「元親御覚悟無きに就いて」家中衆が背き「黒岩」に集まったこと、家中衆は高光右衛門大夫と岡伯耆守を通じて隆家に善処を依頼し、黒岩を宍戸氏に渡すことを申し入れ、隆家はこの申し出を承知し、家臣の佐々部美作守に人数を副えて黒岩へ派遣したことが知れる(萩藩譜録岡六兵衛竪雄)。
 「元親(近)」の「覚悟無き儀」というのは皆目見当がつかないが、彼の支配の不手際によって、家臣が離反し、宍戸氏の介入を招いたことだけは、この文書で確認できる。
 元親(近)と家中衆の対立は、或いは、江戸時代の地誌に記する左の伝承と関係があるのかもしれない。
「西城宮氏の家臣に田辺美作というものがいた。この者悪事を働いて、未渡村国広(東城町)で成敗されようとした。ところがこの者はその場を逃れ、田総氏の家来岡孫八を頼った。討っ手は美作、孫八共に成敗した。二人とも大剛の者で、両人の成敗には高宮氏の家来若林筑後も共に討手として手柄を立てた(水野様一代記摘要)」
 若林筑後は、別の書物(西備名区)では、矢不立城主庄野三郎元近家士若林筑後とあり、宍戸隆家書状に登場する元親の家臣と見て良いだろう。

備陽史探訪の会
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