びんご 古城散策・田口義之

◆大可島城と村上亮康 (4)
                                       (福山市鞆町) 〈152〉

亮家大の兄、村上吉充画像 (因島資料館蔵)
 今回の連載では、「海の武士団」のことを一貫して「海賊衆」と呼ばせてもらった。遣明船の警固などで幕府が出した指令に「諸国海賊中」とあるからだが、他にも「警固衆」と呼ぶ場合もあって紛らわしい。
 海賊衆の中でも、最大の勢力を誇ったのが能島・来島・因島の三島村上氏であった。同氏などは海賊衆の中では別格の存在で、戦国時代には「沖家」と敬称され、陸の大名と対等に近い関係を持った。
 村上氏は、さかのぼれば信濃(長野県)の村上を名字の地とした源氏で、戦国時代、あの武田信玄と覇を競った村上義清と先祖を同じくする名族であった。村上氏が瀬戸内海に進出したのは平安末期のことと伝える。早くから源家の郎党となっていた村上氏は、保元の乱の恩賞で伊予守に任ぜられた源義朝に従って伊予に移住し、「沖家」村上氏の起こりとなった。
 村上氏が瀬戸内海地方に勢力を持つにあたっては、伊予の大名河野氏との関連も見逃せない。河野氏は古代以来、大三島の大山祇神社を氏神として海上に発展した武士団で、村上氏は河野氏と主従関係を結び、河野氏のを背景に勢力を拡大していった。中でも南北朝時代、南朝方として活躍した村上義弘は有名で、因島の青影城を本拠とし、一時は芸予諸島を支配下に置いたと伝える。
大可島城址
 この村上義弘までを「前期村上氏」と呼ぶ。義弘には子がなく、村上氏は断絶の危機を迎えるが、南朝との縁で北畠顕家の孫師清が跡目を継ぎ、この人物が「後期村上氏」の祖となったという。
 系図が錯綜していて、正確は期しがたいが、師清に義顕、顕忠、顕長の3子(或いは義顕の子が雅房、吉房、吉豊)がそれぞれ能島、来島、因島の三島村上氏の祖となった。
 この内、最強の勢力を誇ったのは、惣領家である能島村上氏で、伊予大島と伯方島の間の宮窪瀬戸に浮かぶ能島を本拠として、「海賊大将軍」として瀬戸内海を支配した。
 能島村上氏に次ぐ勢力を持ったのは、一番南の来島海峡に臨む来島を本拠とした来島村上氏で、後に毛利氏を裏切って豊臣秀吉に味方したため、三島村上氏の中では唯一、江戸時代、大名として存続した。
 大可島城に拠った村上亮康の本家因島村上氏は、三島村上氏の中では最も大きな島である因島を本拠としたため、山陽側の山名、大内、毛利氏などの陸上の大名との関係が深く、海の武士でありながら、陸上にも大きな所領を持つ国衆としての性格も持っていた。
 大可島の村上亮康も、三島村上氏の一翼を担い、鞆沖の備後灘を支配したが、統一政権の誕生によってその支配も幕を閉じることとなった。関白となった豊臣秀吉は、天正十六年(一五八八)「海賊停止令」を発し、村上氏が持っていた海賊としての権益を一切認めない政策をとった。能島の村上武吉はこれに強く抵抗したが、遂には能島を奪われ、毛利氏の元に逃れた。大可島の村上亮康も、天正十九年(一五九一)、鞆を没収され、長門大津郡に移され、海賊としての活動に終止符を打った。

備陽史探訪の会
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