びんご 古城散策・田口義之

◆大可島城と村上亮康 (3)
                                       (福山市鞆町) 〈151〉

大可島城址から燧灘を望む
 郷土史書の伝承では、鞆大可島城の伝えは混乱している。多くの「備後古城記」の写本では、村上亮康の代わりに村上河内守を載せ、「永禄年中」の居城としている。「西備名区」は河内守の実名を「吉継」とし、元伊予河野氏の旗下で、後に毛利氏に属し、船手の将として厳島の合戦で手柄を立てたという。
 鞆は内海の要港であっただけに、海賊衆の勢力が早くから及んでいたはずだ。
 海賊は何も村上氏の専売特許ではない。塩飽や伊予河野氏の流れを組む者も、備後沿岸部には存在した。
 「備後古城記」によると、引野や野々濱の古城主に「塩飽」氏が見られ、一帯は当時沿岸部であったことから、塩飽海賊衆の一族と見られる。また、大門の古城主藤間氏は伊予河野氏の一族と伝わり、後、出家して光円寺の開基となったという。
 実際に、記録に姿を現さない海賊衆も多かった。尾道市向島の「宇賀島衆」もそのひとつだ。彼等の正体は杳として知れないが、その最後だけははっきりしている。
 「宇賀島」は向島の北岸に浮かぶ「岡島」のことと考えられ、小さいながらも尾道港の喉元を押さえる絶好の位置を占めていた。宇賀島海賊衆が史上に姿を見せたのは天文二三年(一五五四)十一月のことである。同年五月、陶氏と断交した毛利氏は、備後安芸の陶方一掃を図り、陶氏に味方していた宇賀島海賊衆を攻撃した。その最後は判明しないが、安芸備後の国人衆や因島村上氏の包囲攻撃を受けた宇賀島衆は全滅したと考えられる。
 彼等は全く痕跡を残さず姿を消したため、今もってその素性はは明らかでない(「向島町史」通史編)。
因島・金蓮寺に残る村上氏の墓石
 大可島に居城したという村上河内守もそうした海賊の一人だったと考えられる。村上氏といえば能島・来島・因島の「三島村上氏」が有名だが、備後南部には、それとは別の村上氏が存在した痕跡は幾らでも残っている。大内義隆を滅ぼし、西国の覇者たらんとした陶晴賢が鞆を見逃すはずはなく、亮康の大可島在城の前に「陶方」の海賊衆が鞆を押さえていたとしても何ら不思議は無い。
 因島村上氏が大可島在城の根拠とした「大内義隆下文」の「鞆浦内十八貫文地」は、所領の規模としてははなはだ狭小なものである。「貫文」は貫高制と云って、石高制の前に用いられていた土地の広狭を示す単位で、その土地からの年貢を貨幣価値で表したものである。一般的に田一反に付き「五百文」が標準とされ、十八貫文は「田」にすると三町六反となる。土地の狭い鞆浦からすると、広い土地のように見えるが、鞆全体を示す貫高とは思えない。大可島と鞆港の一部で、村上亮康は鞆港に出入りする船からの入港料(当時帆別銭とか駄別銭と呼んだ)や、警固料(航行する船の安全を保障する代わりに徴収したお金)を主な収入源としていたと見ていいだろう。

備陽史探訪の会
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